Kさん
みなさんこれ欲しいですか?300万払って。お母さん役割のやつ。なんだっけ、VFだっけ。
Hさん
もし、みんなが必要ないっていうんだったら、みなさんある程度幸せな・・・っていうか、母がいなくても大丈夫な人間関係を持ってるっていえるのかな~って。
私は必要ない・・・かな?
Kさん
なんかちょっと欲しいかも、って思ったんですけど。これ、一回持ったら捨てられないような気がするんですよ。
Saさん
なんか逆に悲しくなるような気がして・・・。
Haさん
未来がなんか無いような感じがちょっとしますよね。
Kさん
でも逆に、自分のは作って欲しいような気がする。
Nam
私は欲しいんだよ、欲しいんだけど、でも、こんな稚拙なやつはいらない(笑)
もっと完成度高くって、それこそ学習能力がもっとあって、受け答えもオウム返しじゃなくて、もっとまるで感情があるかのように思えて、こっちが予測しないとっぴじゃないけど、驚くようなはっとするようなことを返してくる能力がある、そういうのだったら絶対欲しい。
Saさん
それって、誰か具体的な人で?
Nam
具体的な人にするか・・・全く、全然関係ないような、実在しないような人物でもかまわない。
Saさん
なんか私も、全然関係ない人の方が、まだいいような気がする。
Kさん
単純に、「しゃべる犬」とかでもいい?
中身はちゃんとしたAIで、ビジュアルだけ犬!
Nam
それ、すっごいイイじゃん!むしろ(人間型より)もっとイイじゃん!こないだの子狐の写真(ヒカクテキ古典でだした参考資料)みたいなAIだったら・・・。
Kさん
そうそうそう、あれがもう人間の声でしゃべって、面白いこととか言って、話し相手になってくれて、だったら・・・絶対買いますよね?
ボケ防止になりそうじゃないですか?誰とも話さないとボケるっていうじゃないですか。
Nam
あんな可愛い動物としゃべれるなら買う買う!
だからさあ・・・。
私はね?
それが動物の形であろうと、人の形であろうと、もしくは形がなくって文字と音声だけのやりとりであろうと、充分関係性が成り立つと思ってる。
だから、動物だったら、ましてや可愛いよね?(笑)
Kさん
そうですね(笑)
Nam
私・・・人との関係性って、そんなにビジュアルが分からなくっても、成り立つかなあ・・・って思ってる。
だから、読書会の中では、zoomの画面でしか知らない人もいる・・・けれども、もしこれが黒い画面であったとしても、言葉の積み重ねがあって、例えばメールやメッセージで文字のやり取りがあったとしたら、充分に関係性が作れるかなあ・・・っていうのが私の中にある。
なぜかっていうと、「ネット世代」だから(笑)
ハンドルネーム、で、顔分からない、そういう中で、人間関係を作って来たネット世代だから。ありじゃない?と思う。
Kさん
まあ、確かに。
今って、VRチャットって、あるじゃないですか?こういうゴーグルを私は持ってるんですけど(見せてくれた)・・・。
これの中で、けっこう自分のアバターでやり取りをするって人もいて、この小説でもあったみたいに、アバターの着せ替えをするっていうのが、お金かかるんすよ。そういうデザイナーとか、専門で作っている人がいて、アバターの着せ替えのパーツを買うんですよね。
ってなったりもしてくると・・・人間のビジュアルは重要じゃなかったんだ、っていうのは思いますよね。
仲良い人は、どんな姿をしていても仲良い。
Nam
だから、充分あると思うんだよね。アバターもありだよね。
で、ひょっとしたら、アバターは分かりやすい「記号」でしかなくて、人間っていうものに慣れてるどうしだから・・・。
でも、この本の中では、猫のアバターとかでてくるじゃん。だから、動物でもいいってことだし。
記号でしかないと思うよ・・・それで充分関係性は出来ていくっていう・・・「時代」。
そういう感覚は、分からない人には分からないけど。
Kさん
でももう、今時、色んなところで関係作れるんだから、もう・・・あれですよね、自分の好きな車を買って自己表現するみたいな・・・感じのような気もするし・・・普通に服を着替える感覚で、色んなアバター着替えて自己表現するでもいいし・・・。
自分らしさを出さないと、埋もれる世界がもう一個増えてるみたいな感じがしますよね。
ただ、この小説の世界観では、誰が作ったかがブランド化してるみたいな・・・まだそこまでは、私の知る限りは無いですね。
Nam
でもさあ・・・男も女も関係なく、老いも若いも関係なく、容姿も関係なく、例えば体に欠損があろうと、言葉がしゃべれない、声がでない、耳が聞こえない・・・そんなこと一切関係なく、全員がアバターっていうのも、悪くない。
Kさん
んー、いいですねえ。「サマーウォーズ」って、そういう世界観でしたもんね。みんながアバターを持って・・・みたいな。
Nam
だから、ネットで知り合うとさ・・・「実は自分は口がきけないんです」とかさ?「実は自分は下半身不随なんです」とかさ?
当然いるんだよね・・・でも全然、分からなくて、言葉のやり取りだけでやっていくから、言われなければ当然分からない。
現実の世界で口がきけなくても、文字のやり取りだったら、「同じ土俵」でやり取りできる。
女だと思ったら、男だったとかね・・・若いと思ったら歳いってたとか・・・、あるよね?
でもそれも、受け入れられる人であるならば。
Kさん
まあ、別にね。
ただ、この小説みたいに、アバターを持っていて、その姿に会うつもりで行ったら・・・っていうのだったら、また違うかもしれないですね。
Nam
そうだね。失望したり、びっくりしたり、するかもしれない。
Hさん
ひとつは、あれもあるんじゃないのかなあ・・・距離が生まれるじゃないですか。アバターとか、こういうオンラインだったりすると、リアルじゃない距離感が生まれるから、逆にこれがリアルの読書会だったら、こんな風にどんどん意見がでたりとか、盛り上がらないかなあ・・・っていう気がするんだよね。
だけど、オンラインだから、みんなどんどん意見が活発にでて、だからアバターっていうのも、距離感が生まれるゆえに、逆に付き合いやすい・・・みたいな。
たとえば、すごく引っ込み思案な人とか、容姿にものすごくコンプレックスを抱いている人とか、実際いると思うんだけど・・・何故かこのオンラインだと、距離感があるから思っている事をどんどん口にしやすい、っていうのかな?
例えば大学時代の研究室の授業とかで、こんなに活発に意見交換でてなかったと思うんだよね。もちろん、先生がいないとかいうのもあると思うんだけど、これが同じメンバーでリアルだったらまた、違う雰囲気になるのかも・・・って、ちょっと思わなくもないから・・・距離感っていうのが、いいように作用してる場合っていうのが、確かにあるのかなあって。
Nam
話しを小説にもどすなら、この中でアバターとして、三好と主人公とイフィーが、ある種の世界の中で楽しんでるっていうのがでてくるよね。
本当に、全く自分でないものになれる場所として行ってるよね。三好は猫、で、自分では行けないような場所に行って、イフィーは、下半身不随だけど、少なくともそのアバターの世界の中では筋骨隆々な性的な逞しい男として、ちょっとヤバイようなところに足を踏み入れて、それは現実世界では出来ないこと、が出来る世界として、この中では書かれているよね。
だから、その中で、その人間が例えばイフィーのようなことをしようが、何をしようが、それは咎められることでもなく、全然自由だってこと。
Hさん
うん・・・例えばね、このオンラインのまあ、読書会になぞらえなくてもいいんだけど、例えばさっき三好とかティリがめんどくさいとか言ってたけど、オンラインだったらあとくされが無いっていうのかなあ・・・。
会って、これだけ話してるけど、いったん退出したら次に会うまで尾を引いたりしないっていうか・・・なんていうのかな。
zoomだから距離がすごく遠い訳よね?次にzoomで会うまでは、会うことが無い訳じゃない?近くにみんな住んでる訳じゃないし。
ところがもし、みんな近くに住んでてリアルに会っていたら、誤解しないで聞いて欲しいんだけど、例えばまた人間関係がこう・・・幅が広がるっていうか、2日後くらいに同じスーパーで出くわして話をしたり、読書以外の話もしたり、全然関係ない話も近くに住んでいて会えるくらいの距離感だったら、もっともっと色んな話をすると思うんだけど、このオンラインだったら、いったん退出したら次の読書会まで絶対に会うことがない・・・。
この、独特の距離感が、すごくいい風に作用すると、言いたいことが言える・・・じゃないけど、それは確かにあるかなあ・・・って、思う・・・思いませんか?
Kさん
いや、分かります。
ただ、それが良いか悪いか・・・距離感の違いはあるよね?って話ですよね?
別にどっちが良い距離感っていう話しじゃないですよね?
Hさん
どっちが良いとか悪いとかって話じゃなくて、距離感が、今までだったら・・・今までの世界だったら得られなかったような距離感を、私たちは獲得してるかな・・・っていうのは思います。
Kさん
はいはいはい。
分かります。それは間違いないと思います。
Hさん
ほんと、不思議なんだけど、読書会でこうやって会っていると、リアルじゃないけどすごく楽しくて、なんか本当に会ったような感じが私はすごくしてて、だから、じゃあ去年みたいな同窓会でね、熊本まで行ってもう会う必要がないような感じがね、もちろん会ってもいいんだけど、会わなくても結構満足してる自分がいるんだな~とか思ったんだよね。
Nam
それなんだよ、Hさん、リアルを知らなくても関係性が出来上がっていくんだよ。
で、それがネットであり、昔の人だったらお手紙交換とかそういうこともあったかもしれないけれども、今はもっと情報量の多いネットっていうものがあって、そこで関係性は充分結べるねって話。
Hさん
ただ、それだけでは・・・なんというかな・・・ダメ。
良くないなあ・・・とは思うけどね。うん、やっぱり。
Nam
私は、そんなに良くないとも思わないんだよね。
Hさん
いくつかあった方が良くない?(笑)
リアルの人間関係もあった方が・・・鍛われる・・・じゃないけど。
ごめんね、小説からどんどん離れていってしまったんだけど。
(※ここから読書会についての話なので略します)
Hさん
私ね、一番最初に読んだ時は、「西日本新聞」に連載されていたのを第一回目から少しずつ読んでいったんだけど、途中からはもう前の晩からすごく楽しみで、眠れないくらい楽しみで、「私って、朔也になったのかもしれない」ってくらい。
三好さんに振り向いて欲しくって、そればかりを念じながら次の日の新聞を読むのが、わくわくっていうより楽しみっていうか、本当に入り込んで、まあ、一日の量が少なかったのも良かったのかもしれないけど、最終回の時はもう寂しくて、「終わっちゃうのか・・・」って思ったら、毎日の大切な習慣が無くなって、すごく寂しくって・・・。
だから、読書会はしてるけれども、物語の中に身を置いて浸るっていう、この快感、楽しみっていうのは、やっぱり「あるな~」っていう。
Kさん
そういう楽しみを知ってるから、社会人になっても読書が続くのかも。
Nam
あのさ、すっごいくだらないこと言っていい?
朔也ってさ、すごく汗かくよね?
Hさん
そこがね、そこが2040年は地球温暖化がこれだけ進んでるんだろうという予測だろうと。
Nam
もともと汗臭いとか言われてクレームつけられるじゃん?仕事でね?
でも、その後もアバターとしてあちこち歩いてる時、メロンの時とかもぐっしょぐしょに汗かいたりとかさ・・・。自分の汗の匂いがふっと気になったりとか・・・とにかく、やたらこの人汗かく。
温暖化っていうのもあるかもしれないけど、この主人公、やったら汗かくよね?
Hさん
暑いからだと思うし・・・それから時代が進んで、人の体臭とかに敏感になる人が多い・・・自分も含めて。そういうのもあるかと思うんだけど、一番は、真夏じゃなくても10月でも気温が高いとか、そこはあるとは思う。
それ以外にも汗の理由があると感じる?
Nam
なんだろうな・・・これだけ「汗をかく目にあわされる人」?
Hさん
あー、酷使されるような仕事・・・。
肉体労働で酷使される人ってことで、その通りじゃないかな。
Nam
リアルアバターそのものは、そんなに汗をかくものとかいうそういうイメージないじゃん?なのに、彼は汗をかかされる・・・大変なお仕事。
そういう仕事をせざるをえないというか、そういうのをして、安い給料をもらってる。良いこともあるけどさ。
Haさん
VFのお母さんの方がかせぐかもしれない。
Nam
だったらさ、うまくお母さん使って、稼ごう・・・って思わないんだよね、この人は。
Hさん
そこがやっぱりね・・・金儲けの為に作ったんじゃない。
ただなんか、書いてあったよね、実際のお母さんが旅館でお仕事してる時に、70歳くらいで体力無いから、パワードスーツを着て布団のあげおろしをしている、パワードスーツを着たら少しは楽なんじゃないかといっても、もともとの体力まで変わる訳じゃないからって・・・。
いくら便利なものが出来ても、人間そのものの体力が変わった訳じゃないっていう・・・。ちょっとだけ、はっとしました。
Nam
これさ、「母は本当に旅館で働いていたんだろうか」
ぶちこんでくるよね?(笑)
Kさん
最後まで分かんなかったっすよね。
Nam
最後にぶちこんできたよね?とんでもないのを。
自分の母親はいったい何の仕事をしていたんだろう。
Kさん
最後まで、「他者性」を示してくるの、こわ~っと思いました。
Nam
ぶっこんできたよね~?「こわ~!」と思わなかった?
Hさん
やっぱり、母のことを今まで分かってるつもりで信じ切っていたけど、愛してても、段々分からなくなってきた・・・自由死をきっかけに・・・じゃないけど、知らない部分があったんだって。
Nam
いや、これちょっとぞっとしたよ。怖い・・・「こんなこと思っちゃうんだ?」って思って。
Kさん
最後まで濁されて終わったのが、良かったのか悪かったのか。
働いていた場所が、明かされなくて終わったのは、ある意味「救い」な気もします。
Nam
調べなかったもんね。少なくともね。三好に聞いてさあ、その旅館がどこか追及したりは、彼はやらないよね。
自分の母がさ・・・「知れば知るほど謎めいた人間になっていく」。
たぶんここは、足元がなんかバーンと外れたような・・・気持ちだったよ、彼は。
Hさん
でも、何でも自分が知ってるって思っていることから、ひとりの人間として見れる・・・ひとりの人間というか、客観的に自分の母親のことが見れるように・・・想像が良いか悪いかは別としても、なっていくっていう・・・ことのひとつ。
Kさん
まあ・・・そうですね。
これで、ちょっともう親離れというか、全部を知ってる訳じゃないんだよ、あくまで他人なんだよ感が・・・。
Nam
全く、「他人感」がでてるんだよね。ここ。
手出し無用、手出しできない人間?こっからは絶対に自分は手出し出来ない・・・親だけど。
Hさん
でも、親も人間だから、そのくらいあるんじゃないかな。
ものすごく大事件じゃなくても。
Kさん
秘密というか、隠し事というか。
Nam
愛人関係にあったじゃん?ね?
そこまではさあ・・・普通だよ。人間なんだから。
知らないことがあっても、親でもそういう誰かと恋愛関係があっても、そこまでは普通なんだよ。
・・・果たして旅館で働いていたのだろうか?(笑)
これはね、もうホラー!ホラーですよ!
全くもう母親が異形のものに変わる・・・みたいな。
Kさん
我々も、他の身内とか友だちからしたら、そう、思われてるかもしれないですからね?
彼らが知らない自分っていうのはある訳だし。こっちで隠してる気は無くても、思ってた奴とは違うって思われる可能性はある訳じゃないですか。
Hさん
だから、それこそ人間関係ごとに、まあ、見せる自分っていうのは変わってくる訳だから、子供にね、見せてた部分と、違う男性に見せてた部分は、大きく変わるのはね、当たり前・・・まあ、有りうることかなあっとは。
Nam
んー、ただ、見せる見せないじゃなくって・・・その・・・「果たして旅館で働いてたことは本当なのか」・・・って、あの、拘るようだけど、そこに来たってことはさ・・・その・・・「全てが虚構だった可能性がある」ってことだから・・・。
だから、相当ひっくり返ったってことだよ?世界が・・・。
母親っていうものが、自分に見せてたものが、全く真実が無く、虚構だったのかもしれない・・・。
と、思ってしまったのが「果たして旅館に務めていたのはホント?」ってとこだからさ・・・。だからさ?・・・怖いじゃん。自分の母だと思っていたのがさ。
Hさん
そうかなあ?・・・自分が思ってなかったようなところで働いてた、っていう風に想像してもまあ、亡くなった後なら・・・自然かな。自然かなって言ったら変だけど。
Nam
んー・・・私は「単なる職業の問題じゃない」と思って読んでるから、ここ。
だから、旅館で働いていたんじゃなくて、靴屋で働いてたの、デパートで働いてたの、どこで働いてたの?っていう話じゃないと思ってるから。
「全てが崩れた瞬間」だと思うよ?「母親との関係」の。
まあ、少なくともここで関係性が一回ガンっと全部崩れた。
で、まあ、そこで「親離れ」っていうことなんじゃないの?
Hさん
んー・・・。
Nam
ここまで崩さなくても!(笑)
って思ったんだけど。
徹底的にやってきたな、平野さん!・・・ぐらいの感じ(笑)
Hさん
ん・・・ただ、確かに・・・実際のお母さんはもう亡くなっていて、この小説の中には一度も出てこないから、イメージがあるようで掴みにくいかもね。VFの母は出てくるけれども、実際のお母さんはほとんど出てこないよね・・・もう亡くなった後の話だから。イメージがこう、なんとなく湧くような湧かないような、不思議な・・・。
Nam
だから、「登場人物が語ったお母さん」しかいないんだよ。
主人公が思ったお母さん、三好が語ったお母さん、小説家の藤原?が語ったお母さん、VFのとこの人(野崎)が「お母さんはこういう人だったんですね」ってお母さんについて言った言葉とか、そういうものしか無いんだよ。
でも、「それこそが」じゃないの?
「人の印象の積み重ねしかない」っていう。
Hさん
そういうことだよね、それぞれの記憶の中のお母さん。
Nam
それは、VFだからじゃなくて、人間って、そうじゃないの?
Hさん
ま、亡くなればね。
Nam
亡くならなくても、そうじゃないの?
Hさん
まあ、でも、目の前に存在をいるっていうのと、いなくて記憶から取り出すっていうのは違うっていう気はするけど。
Nam
ん・・・私は、全部がそういうものだと思ってるから。
Hさん
んー、でも、実在して目の前にいるのと、記憶の中だけに存在するっていうとなんか、記憶だとどんどん変質していく可能性があるじゃない?こう、あるかなと思うんだよね、時間と共に、でも、実在してたら、やっぱりその実在があるから、まあ、ひとつの物として、って言われたらそれまでだけど、記憶の中もちょっと違うかなあ、とは思うけど。
Nam
んー?どうかな?
なんか、でも、ある段階のものっていうのは、変わんないんじゃない?
で・・・それが、実在してたり生きてれば、そこにプラスされていく「情報」っていうのはあるけれども、それが有るか無いかだけの話で・・・。
Hさん
確かに、10年前の母って言われたら、それは記憶の中の母でしかない訳よね。
Nam
これは(VFや、小説の中に出てくる母親は)何年か前の母だもんね。
Hさん
といったところで、今回本に添った話からだいぶん逸脱してしまったけれども、もう9時半なので、みなさん何か「本に関して」言い足りないことはありませんか?
Nam
もう、ちょっと・・・読み込んでなくてごめんって感じ。ちょっとさ、色んな情報がありすぎて、頭の中がばらけちゃった感じ。
Hさん
確かにね、大小様々なテーマが沢山盛り込んであるから。
Nam
一回でやるの難しいよね。
なんか「死生観」とかも、もっと踏み込んでもいいかもしれないし。
なんか、面白かったけどね。
Hさん
「もう充分」とかね。
Haさん
「本心」ってなんだったんだろ?
ね、お母さんの本心は。
Nam
分かんないってこと?結局(笑)
Haさん
お母さん、勤め先が分かんないのと同じで、結局・・・(笑)
Hさん
「他者性」ってところに。
Nam
「他者性」とか出しちゃったら、「本心なんか分かんない」で終わっちゃうじゃん!
Kさん
まあ、そう、結局本心は分かんないんだよ?って話ですかね?
Nam
「本人が語らない限り分かんない」ってことだよね。
Kさん
そうですね。本人も正しいことを言ってるかは分かんないですし。
Hさん
また、時間と共に変わっていく・・・っていうのもあるだろうし。
じゃあ、一旦は終了で。他になければ。
Nam
これ、どっかでもっかいやってもいいくらいややこしかったね。
Hさん
何かテーマをはっきり決めちゃえば良かったもしれないね?
※ここからは私の個人的感想です。
私が好きだと語っている「スズメ」ですが、私はこの小説のスズメは、メタファーだと思っています。
一羽だったスズメがティリが来た時に飛び立ち、ティリと話しているうちに二羽になって戻ってきた。もちろん、同じスズメとは限らないし、朔也にスズメの見分けはつかない。
たぶんですが、飛び立ったのは朔也で、戻って来たのは、朔也とティリ、もしくは、この世の全ての今新しく関係を始めようとしている二人なのだろうと思います。
そして、その二羽のスズメに朔也はこう思います。
「友だちを連れて戻ってきたのなら、僕は歓迎したかった。しかし、新しい二羽が飛んで来たのだとしても、僕はやはり心から、歓迎したい気持ちだった」と。
愛していた母親の死にとらわれることから自由になり、自分で自分を、そして自分の外の世界に目を向けて全ての同胞を祝福するこのラストは、このうえもない幸福なラストといえるのではないでしょうか。
このシーンに関連して更にいえば、Haさんが、朔也とティリのオーダーしたお皿が入れ違って置かれたのには、どんな意味があるのだろうとおっしゃいました。
私は「二人の距離が縮まる、ちょっとした微笑ましいアクシデント」というようなことを答えましたが、もう少しそこを説明してみようかと思います。
お皿が入れ替わるということはつまり、単なる物質としての皿の問題ではなく「あなたのものが私のものに」「私のものがあなたのものに」なったということ。
これもメタファーとして作者が意図的に書かれているのだと思います。
文中に長々と語られる藤原さんの小説の意味についてですが、すでにSaさんが素晴らしい回答をされています。
「高みから見る者と見られる者、笑う者と笑われる者、騙す者と騙される者の格差の象徴」ではないだろうかと。
私はこれにもう一つの私なりの答えをプラスしてみます。
この藤原の小説が表しているのは、「他人の本心は分からない。ましてや、既に死んでいる相手なら知りようもない」ということなのではないでしょうか。
騙し、騙されて、何が果たして真実だったのか。
男はそれがドッキリだと知っていたのか、それとも知らなかったのか、女の子には分からない。
朔也の母親も、この小説内の男も、いきなりの事故で死を迎える。
「本心」を明かさないままに。
母親と朔也の、大きな話の枠組みの中に、同じ構造の小さな話を入れ込んであって、その小説を読んだ朔也が、実は自分は最後まで母親に騙されていたんじゃないかと「疑う目」、つまり「客観性」を獲得する。
「母親を他者として見始める」、そのキッカケに、作者の平野さんは使っているんじゃないのかと思いました。
ところで、私が読んで思うには(2冊だけですが)、平野さんの小説は、一見色んな情報が詰め込まれていて、複雑で難解そうに見えるのですが、実は平野さんという人は「とても親切な作者」で、文中に沢山の種明かしをしているような気がします。
「分かるかな?こう書いたら分かるかな?」と、読者に寄り添って伝えようとする気持ちの強い人なのではないかと、そう感じます。
後、私が最初に「思ったのと違った」と繰り返している意味ですが、それは「SF」ではなかったからです。
「2040年の近未来、息子がバーチャルフィギュアで死んだ母親を蘇らせる」
という設定から、SFを期待してしまったのですが、そこは違いました。
そもそもこの小説は、朔也の成長物語の側面が確かにあって、どうしようもない喪失感と悲しみの中にいる人、社会の中でいやおうなく置かれた辛い状況から抜け出そうにも抜け出せない人たちに、希望を与えるものでもあると思います。
ただ、身も蓋もないというか、あまりに真実なのですが、「お金があれば可能性が広がる」ということを言ってもいるなあ・・・と。
それから、この小説の中に私が感じるのは、平野さんの「死生観」です。
常々個人的に思っていることですが、死後自分がどうなることに慰めを見出すのかは、人それぞれです。
天国に行くことに慰めを見出す人。
死んだら「無」になってしまうことに慰めを見出す人。
死んだら「原子」や「分子」に分解されて、地球上に存在し続け、漂い、そのうちに一部は結合して別のものに変化していくことに慰めを見出す人。
他にも様々なものがあると思いますが、平野さんの場合はこの三番目(物理学的観点からは正しいと言われているもの)を慰めとしている様に私は感じました。
そう思ったのは、三好から借りて朔也が体験する『縁起engi』という宇宙時間を体験するアプリのシーンからです。
他にも色々ある気がしますが、ここまでにしておきます。
とにかく、この「本心」には、作者の平野さん本人が色濃く投影されていると思いました。
<文責 ナンブ>
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