第10回(3月)ヒカクテキ読書会「阿部一族」報告(混沌)

10回(3月)ヒカクテキ読書会「阿部一族」報告(混沌)

「阿部一族」(森鴎外)

331日(日曜日)19時半~21時半まで(終了時間厳守)

◆長引かないよう、アラームセットして始めました。

 

しかーし、選者の方が急用でいらっしゃらないことに!

進行もまとめもお願いするつもりで、へーへー気楽に参加したところに、大番狂わせ!

どうなるどうなる?

 

 

森鴎外(1862~1922)

明治~大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医、官僚。

東京大学医学部卒業。陸軍省派遣留学生として、ドイツに4年。

帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表。文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊。文筆活動へ。

日清戦争出征や小倉転勤などを経て、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」なども執筆。

〇代表作

舞姫(『国民之友』18901月)

ヰタ・セクスアリス(『スバル』19097月)

(『スバル』1911919135月)

興津弥五右衛門の遺書(『中央公論』191210月)

阿部一族(『中央公論』19131月)

佐橋甚五郎(『中央公論』19134月)

山椒大夫(『中央公論』19151月)

高瀬舟(『中央公論』19161月)

寒山拾得(『新小説』19161月)

他多数。

 

■阿部一族

江戸初期に肥後藩の重職であった阿部一族が上意討ちで全滅した事件を題材にしたもの。

栖本本又七郎(作中名、柄本又七郎)などの証言をもとにした『阿部茶事談』が下敷き。

前年の大正元年に、明治天皇崩御の際に乃木大将が殉死。その是非をめぐる議論が盛んに。『阿部一族』は、前年に発表された初の歴史小説『興津弥五右衛門の遺書』と共に、当時の世相を反映したもの。

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※意見を言う時、一人一人の方に言い残しの無いようにじっくり語り終えてもらうことを心がけるようにするべきか、ある程度は各自が自由なタイミングで思ったことを口にし合う方がいいのか・・・また、推し本を選んだ時は、その人が中心になって話を回していくのもいいかもしれない・・・とか、今後の進行について話した後。

まずは各自の感想から。

 

Saさん

私はいつもそんなにまとまってないので、茶々を入れてくれると嬉しいです。

熊本の話で、懐かしさもあって、読みました。武士の世界で、殉死が美徳とされていて、理不尽だと思いました。ちょっとのことで切腹させられる。切腹しなかったことで、一族全部が死ぬことになって、ほんと理不尽。森鴎外を読んで、久しぶりに古典な文を読んだ気がします。

 

Njさん

感想という感想でなく、好きか嫌いかでいうと、好きでも嫌いでもなく、Saさんと一緒で、武士道とか武士の生活とかいうものは、想像よりも過激。今の人と同じ、もしくはそれ以上に空気を読まなくてはいけない。窮屈で、命がけのことがすぐ近くにある大変な時代。そんな武士の世界を興味深く読んだ。

脱線するけど、真田広之が手掛けた『将軍』っていうドラマがディズニーで配信されているけど、家康が主人公で、三浦按針が流れ着いたところ、そこで描かれている世界と似ている。切腹がすぐあって。

熊本で、こんなことがあっていたんだな、と思った。

あと、人の名前の紹介が長い。

 

Kさん

みなさんがおっしゃるように、この価値観はよう分からんな!

とにかく、やたら殉死したがっている。どこまで自分からやりたいのか、それともやらなければいけないからなのかが、分からない。

それが正しいと聞いて育ったら、当然みたいになるんだろうか。

そもそも、この時代はあんまり長生きしないから、死が軽いのか。

『佐橋甚五郎』の方が、自分は面白かった。

でも、普段は自分からは読まない形式のものを読めて良かったです。

 

 

Haさん

読んだけど・・・読めなかった!!!

殉死が痛すぎ。ホラー映画みたいなのと同じに、飛ばして読んだら、痛いところを飛ばし過ぎてしまって、残ったものが無さ過ぎて・・・分からなかった。

死んだんだろうけど・・・良く分からない。

初めのところを読んで、殉死は美徳なんだろうけど、赤札(召集令状)がきたのと同じ感じがした(きたら否応なく出征)。

「数の数え方」っていうのによると、食べた後に残ったもので数を数えたという考えがあって、動物は頭が残るから「一頭」、魚はしっぽが残るから「一尾」、人間は死ぬと名前が残るから「一名」(ここで、みんなが「お~!!!」)。

人は名前が大事、家名が大事。窮屈だけど、その中ではそれが普通。

価値観が違うのに、今もこの作品は残っているから、良いもの(名作)なんだろう。

 

Saさん

空気を読むってところは、今と変わらない。まわりの眼を気にして。

 

Nam(私です)

これ、さっき・・・今日の一時から読んだ(笑)

私は時代物とか戦記物とかが好きだから、例えば竹内数馬が戦いに赴く時の描写「手槍を取って庭に降り立つ時、数馬は草鞋の緒を男結びにして、余った緒を小刀で切って捨てた」のとことか「カッコいい!」とか思った。

「もう草鞋を結びなおすことはない、つまり、死を覚悟してる」ってことでしょ?

あと、それぞれの装束の説明とか、帯びた刀や武具がどういうものとか、の具体的な説明にわくわくする。例えば猩々緋の陣羽織がどうこうとか。

それと、主従関係の描写も面白かった。

長十郎が忠利の足を持ち上げて額に押しあてて殉死を願うところ。願われて忠利は横を向く。でも諦めずに、三度繰り返すとことか。

阿部弥一右衛門と忠利は馬が合わなくて、忠利は何かと反発して言われた反対のことをするくらい嫌いだけれども、弥一右衛門が勤勉に仕えて隙が無くて叱るに叱れない、とか。そのジレンマが面白い。

最初の漢字ばっかりの長い人物説明のとこは、忠利の家系図一枚見せてくれたら話が済むなあ、とか思ったけど。

 

さん

死ぬのが嫌って人はいなかったのかな。

それと、自分は気になった部分があって・・・瓢箪(ヒョウタン)って、陶器? 植物?

(「ええええ~!」の声。そして、瓢箪がどういうものか、どうやって育てて、どうやって中を中空にして使えるようにするのか、何に使っていたのかなどの説明)

切腹することを「瓢箪に油でも塗って切れば好い」って書いてあるの、どういうことかと思ったんですけど。

 

Nam

瓢箪って干すと肌色になるし、真ん中がくびれて人の上半身みたいだから、見立てたんだろうね。

(※人々が殉死しなかった弥一右衛門を皮肉って「殉死の許しがなかったことを好いことに、のうのうと生きている。許しが無くても腹が切れないことはないだろうに、切らないところをみると人とは違う(切っても切れないような)腹の皮をしているのだろう。だったら、せめて瓢箪に油を塗って自分の腹に見立ててそれを切れば好かろうよ」と馬鹿にしたもの)

 

Kさん

あ!(検索したらしく)amazonに瓢箪あった!(笑)

話しは変わるんですけど、犬を道連れにするところ。僕も犬を飼ってるんで、あれは許せん! 死ぬなら自分だけ死ね!

 

Nam

あれは私も許せん!

「生きていたいなら握り飯を食え。死にたいなら食うな」とか言って、犬はそんなの分からないよ!しっぽを振ってるのを刺し殺すなんて!

 

Kさん

なんで自分の犬を殺したんだろう。

 

Nam

自分の犬じゃなくて、殿様のおかかえの猟する人と犬なんじゃない? その前に、殿様の鷹狩の鷹が2羽井戸に飛び込んで死んだのを殉死って言ってるじゃない? 犬は殿様の狩りの時に鳥を捕まえる猟犬なんでしょう?

 

この『阿部一族』って、元ネタがあって、この話の中だと柄本又七郎にあたる人が語ったことを元にした『阿部茶事談』っていうのがあるみたい。

「阿部一族の打取りなぞは茶の子の茶の子の朝茶の子じゃ」って又七郎が言うじゃない? つまり、お茶の子さいさいって言ってるんだけど、「阿部茶事談」っていうのは、そういう意味らしい。

しっかし、又七郎もおかしいよね? 阿部家と隣人で親しく付き合いがあって、危険を冒して妻が差し入れとか持っていくのに、「情と義は違う」とか言って、真っ先に討伐に加わるって・・・。

 

それと、この話と『興津弥五右衛門の遺書』は、乃木大将の殉職に影響を受けて書いたものみたいなんだよね。

 

Njさん

夏目漱石の『こころ』でも、主人公が自殺するのが明治天皇が亡くなった後の乃木大将の殉死の影響で、「明治に殉じる」って。

明治だけじゃなくて、第二次世界大戦の時にも皆が「天皇陛下万歳!」って言ったりしてて。意味は違うけれども。

 

Haさん

命より大事なものがあるんでしょうね。海外の自爆とかも。

私は痛そうで読めないけど(笑)

 

Kさん

僕たちの世代は「個人主義」というか、平成から・・・そんくらいからですよ、帰属意識が無い。

殿とか国とかじゃなくて、今だったら自分が生きていることが大事。

当時の人たちはこういことを考えているんですか? 分からないけど。

宗教とか、悩んでたら神様に聞けばいい、そういうのが楽なんかな?

当時の人たちは、これをすんなり読んだのか? 当時の書評が読みたい。

 

Njさん

当時じゃないけど、僕の小さい頃から、年末になると赤穂浪士の「忠臣蔵」が必ずテレビとかでやってて、あれもいわば殉死の話だよね。自分は、そういうのを、見たり読んだりして刷り込まれてきたものがあるんじゃないかと。

あれはそもそもどういうもの? 

 

Nam

「忠臣蔵」は、江戸時代に歌舞伎で大評判になったんじゃないかと。歌舞伎の前に浄瑠璃もあったと思うけど。

ところで、鴎外って士族なの?

 

Haさん

鴎外って、御典医の家系、本人も医者で、知識が幅広い。天才? 秀才?

 

Nam

スーパーエリートだよね。官僚だし。昔の作家の人は、とてつもなく教養があったよね。

で、『阿部一族』どうする? 細かく当たっていっても良いけど、もういいか?(笑)

鴎外って、自分はあんまり読んだことないけど、小説家の人たちに鴎外が良いっていう人がけっこういるんだよね。平野啓一郎さんもそうみたいだし、比呂美さんもだし、瀬戸内寂聴さんとかも。

 

みなさん

何がいいのかなあ、文章?

 

Kさん

とにかく、僕はこの価値観は分からないけど、普段読まないものを読めたので良かったです。

みなさんは、もし自分が登場人物だったらどうしますか?

 

Nam

「働いたものは血によごれている。小屋を焼く手伝いばかりしたものは、灰ばかりあびている。」ってあるじゃない?

私は灰まみれ組。戦闘が終わったころに出てきて小屋を焼く。

 

ところで、『阿部一族』ってさ、題名が良いよね?

でも、想像と違ってたよ。阿部っていう一族の人々の歴史のお話なのかと思ってたよ。

 

Saさん

最後の方になるまで、阿部さん出てこないしね。

 

Nam

一番残念なのは、この場に「阿部さん」がいないことだよね? 「おまえ、阿部一族じゃん!」っていじれたのに!(笑)

 

Saさん

脱線しちゃうけど、宮藤官九郎が、「阿部さん」ばかりを集めた会をやってたんだよね。たぶん、阿部サダヲがいたからだと思うんだけど。で、阿部寛は参加してくれなかったんだって。

阿部さんだけだとなかなかいないから、「田辺さん」とかも「た~なあ~べ」と音で「あべ」が入ってるから可なんだって。(笑)

 

Kさん

ところで、みなさんは鴎外の「ヰタ・セクスアリス」は読まれましたか? どんなですか?

 

Njさん

性のめざめ、みたいな話だよね。

 

Saさん

だけど、男子校でまわりには男ばっかりの環境だから・・・相手はそうなるよね?

みたいなね?

 

Kさん

そういうのなのか・・・。

(がっかりさせてごめんなさい。自分で言っておいてなんだけど、決してそういうのじゃないので、短いし、読んでみてください。おぼろげな記憶で申し訳ないけれど、淡々とした日記みたいな、大して盛り上がるところもないけど、それがいいっちゃいい、そんな感じのものですよ。・・・)

 

※ここからずっと雑談で大盛り上がり!

知り合いが「純文学を300冊読んだら初めて純文学の良さに気が付いた」と言ったから、自分もやってみようと思う(なんかすごい!)という話とか。

そもそも純文学ってなに?(ほんと、これ、なんだ?)とか。

今の高校生は「国語便覧」を持ってない(廃止された)とか、いかに国語便覧が楽しい読み物かとか、平安装束の色重ねとかの自分の好きなページの話とか。

電子書籍をみんなは使っているのか、使ってどうかという話とか。

コンピューターやスマホに人間の脳が対応するには、あと2000年はかかるとか。

北欧では、子供の教育に使う教材を紙のものに戻したという話とか。

今後の読書会で何を読むかの話とか。

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●ここからは、個人的な感想です。

 

バイバイしてzoomを退出する時に響いたKさんの声!

「『佐藤甚五郎』を読んでみてくださ~い!」

 

そこまでいうなら読まねばなるまい。

読んだ、そして思った。

『阿部一族』と同じじゃん?

いや、同じじゃないですよ? もちろん別の話ですよ?

じゃあ、何が同じと感じたのか・・・それは、森鴎外のスタンスです。

 

とにかく、『阿部一族』。

 

私は、読んで特に理不尽な話とも、悲劇的な話とも思いませんでした。

現在の価値観から推し量ると、そう感じることもあるのかもしれませんが、この小説を書いた鴎外は、「殉死が貴ばれる武家社会の理不尽さ」や「一族そろってうち滅ぼされる阿部一族の無念」を描こうとしたわけではないと思います。

 

私が面白く感じたのは、武家社会の理の中で生きている登場人物それぞれの生き生きとした在り様です。

武家社会の理そのものが、理不尽だの恐ろしいの言っても、それはそれなのでそうなのだから仕方がないことです。

このお話しの登場人物たちは、それを受け入れて生きています。
受け入れたうえで、どうあるのか、それが最も面白いところです。

 

上で述べたように、この小説は『阿部茶事談』下敷きにしたもので、その信憑性はともかく、起こった事件は史実です。

江戸時代の事件を、明治に鴎外が『小説』として描いたものです。

この『小説』というところに鍵がある気がします。

 

冒頭の長々とした人物紹介や、係累紹介は、いかにも歴史物を感じさせます。

しかし、そのうちに、終着点の決定している史実を語りながらも、順番にそれぞれの登場人物にスポットをあてて、その人物がどういう人間で、いかに行動してどうなっていくのかを詳しく紐解いていきます。

その、自由自在なフォーカスが、地の文の固い事実の羅列と対照的で、視点の動きを体感させます。

 

そこで浮き上がる人物像は、それぞれに愛すべき部分を備えていて、時にはユーモラス

この登場人物達に、どこかで出会った人のような人間味を感じてしまうのは、「人の性分」が丁寧に描かれているからではないでしょうか。

ある状況の中で、ある人が「いいも悪いもなく、否応なくそうなってしまった」のは、頭で考えてそうなったのではなくて、己の生まれついての性分がそうさせたのです。

だからこそ、これを読めば「人間ってそうだよなあ、仕方ない生き物だよなあ」と、共感せざるをえませんでした。

 

細川忠利という、主君の死をめぐっての大騒ぎの顛末は、主君と臣下の「人の性分」が入り混じった人間模様の曼陀羅のようです。

そして、人間社会である限り、実は今も世の中そんなものです。

淡々と起きることを書き綴りながら、人がそうなるに至る経緯、そうさせる人の性分は丁寧に描いていく、最初に書かせていただいた『佐藤甚五郎』にも通じる鴎外のスタンスとは、そういうものなのではないかと私は思います。

 

さて、登場人物ごとに話をするなら、色々とみんな面白いのですが、まずは内藤長十郎。

上の意見でも取り上げた瀕死の忠利の足を額にあてて、殉死を願ったあの男です。

さしたる功績も無いのに、可愛がられ、酒の席の失敗をかばってもらった彼は、その恩に報いるには、殿が身まかれば殉死するしかないと思い込んでいました。

 

そして、ここが複雑で面白いのですが、鴎外は彼の心の中に切り込んでいくのです。

「自分の発意で殉死しなくてはならぬと云う心持の旁、人が自分を殉死する筈のものだと思っているに違いないから、自分は殉死を余儀なくせられていると、人にすがって死の方向へ進んで行くような心持が、ほとんど同じ強さに存在していた。」

 

こういう作者目線で行われる心理描写は、明治になってからの「近代文学」ならではないかと感じます。

 

更に面白いのは、母親も妻も、家じゅうが長十郎の殉死を聞かずして受け入れていたことです。妻は、悲しみを心に秘めて外には出さず、それでもそうと知れ、哀れではありますが、全体の様子は淡々と描写されています。

 

もうすぐ切腹する長十郎は好きな酒を飲み、鼾をかいて寝てしまいます。

そして、時間がたつにつれ、姑と自分の食事をどうしたらいいのかと反問する妻や、なかなか起きない長十郎にやきもきしてそろそろ起こせという姑の言葉などは、状況が状況なので、その落差にユーモアがにじみます。

 

そして、長十郎は茶漬けを食べて、切腹に向かいますが、その姿はひょうひょうとして、まるで普段の日常の延長に切腹があるかのようで、面白いです。

 

鴎外の文章のうまさは、淡々とした抑制のきいた文の中にも、思わずうなるほど色鮮やかに場面が浮き上がるところにあると感じました。

例えば、特に、長十郎が寝ている間の静まり返った家の描写は、緊張の中の静けさが冴え冴えと美しく、最後のトンボの羽が垂れたままじっと動かない描写などは、あまりにうますぎて心憎いばかりです。

 

家はひっそりとしている。ちょうど主人の決心を母と妻とが言わずに知っていたように、家来も女中も知っていたので、勝手からも厩うまやの方からも笑い声なぞは聞こえない。

 母は母の部屋に、よめはよめの部屋に、弟は弟の部屋に、じっと物を思っている。主人は居間で鼾をかいて寝ている。あけ放ってある居間の窓には、下に風鈴をつけた吊荵つりしのぶが吊ってある。その風鈴が折り折り思い出したようにかすかに鳴る。その下には丈たけの高い石の頂いただきを掘りくぼめた手水鉢ちょうずばちがある。その上に伏せてある捲物まきものの柄杓ひしゃくに、やんまが一疋ぴき止まって、羽を山形に垂れて動かずにいる。

 

柄本又七郎もまた、触れずにはいられない人物です。

隣人として阿部家と親交があり、命の危険を顧みずに妻に差し入れをさせ、阿部家のみんなも泣いて喜んだその後で、ぱたんとひるがえって「情は情、義は義」と言い切る。
夜中にこっそり忍んで、いざとなった時に討ち入りやすいように阿部家との間の竹垣の紐を全て切っておくなど、ちょっとどうかと思うようなあまりにも用意周到な行動を取るところが新鮮です。

 

しかも、この小説のラストは、阿部一族の死骸の吟味をしたら、又七郎のつけた槍傷が最も立派であったので、又七郎は面目を施したところで終わる。

 

「阿部一族討取りなぞは茶の子茶の子の朝茶の子じゃ」

と臆面もなく笑って言う又七郎。

人情という意味では裏切り者ともいえる又七郎が、「阿部一族の討伐成功で、一番の武功をあげて得意満面」「しかも、全く悪びれないし、周りもほめそやす」という、これもまた「良いも悪いもなく、なるようになっただけ」というような、何ともいえない乾いたユーモアを感じます。

 

そのうえ、褒賞として与えられた屋敷地の裏に、竹藪があって、それも遣わそうかと言われて辞退する。

竹は普段から殿の役に立つし、戦時ともなれば竹がたくさんいるから、それを自分がもらうのは気が済まぬという。

人としての筋が通っているのかいないのか、この又七郎の性分がまた私には面白くてたまらないのでした。

 

細かい面白いところはいっぱいあるのですが、きりがないのでこれまで。
ちなみに、付け加えておきますが、「討たれる阿部さん達のほうもなかなかぶっとんでます」ので悪しからず。

当日、全く掘り下げなかったことの鴎外への謝罪を込めて、簡単ですが、これで感想とします。

<文責 ナンブ>

※追伸
後日、欠席してらした選者の方とお話しすることに。
「私が、鴎外の何が好きって、他の小説もそうなんだけど、まずは何よりも文、文章が好きなんだよね」
だそうです。

 

 

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