問1
先生は通勤や生活に便利なところではなく、河内にお住まいでジープに乗っていらっしゃいました。どうしてだったのでしょうか?
答1
都会ではない所、人のいない空間、高い山あるいは海の見える場所に住みたいというのが妥協できない夢だったので、熊本に行ってすぐに、50㏄のバイクに乗ってそういうところを毎日さがし、運よく、河内町大字白浜字峠にあった、蜜柑の選果場に付属する住宅を見つけました。奇蹟的と言っても言い過ぎではない、僥倖でした。朝、起きれば雲仙が望め、車で峠を越えて熊本市街に下ってゆけば、今度は阿蘇が見える――冬にはその両方ともが白煙をあげている――すばらしい土地に、たった二年間ですが住むことができました。
ただ、蜜柑畑の石垣が壊れるのではないか、農道が流されるのではないかと思うほどに激しい雨が降り、冬には積雪のために普通の車では峠を越せないような場所だったので、ジープを買いました。山登りが好きだったことも手伝って。
あのジープとは昨年2022年7月にお別れしました。ちょうど40年。その前半は熊本ナンバー、後半は松本ナンバーを付けて走っていました。
問2
熊大比較文学研究室にいらしたいきさつは?
答2
金原理先生が和漢の分野を担当されることは決まっていて、さらに和洋の分野を受け持つ人材を募集し、2専攻両方そろったコースを立ち上げたい――そういう採用計画を知り、一も二もなく応募しました。新しいコースの立ち上げはやりがいのあることに違いなかったし、「答1」で書いたような願望も働いたことはまちがいありません。
問3
昨年10月には『水の駅』の舞台にお誘いいただきありがとうございます。思い起こせば、関口先生のかつての講義では土方巽、転形劇場、能、などのWordが時折出ていたと記憶しています。舞台芸術に特別な思いがおありになったのではないでしょうか? 考えがありましたらお聞かせください。
答3
細かい事柄まで記憶してくださっていることに驚きましたが、たいへんうれしいことです。自分がそういう話をしていたこともまるで忘れていました。もしかすると太田省吾の文章「歌舞考」なども教材にしていたでしょうか。「特別な思い」と言えるようなものは長い間なかったのですが、ここ数年は、なぜか演劇に関わることが多い毎日です。そうなった理由は自分でもよくわからないのですが、演劇の仕事は楽しいと思います。戯曲の翻訳は小説の翻訳よりも性に合っているとは以前から思っていましたが‥‥。今年も去年に続いていくつか演劇の仕事をしています。
京都の劇団「地点」が、ゴンブローヴィチ作『ブルグント公女イヴォナ』をレパートリー化するそうで、その初演が9月30日にあります。
https://news.yahoo.co.jp/articles/62e432f5406429e3c5c16eb21289553631e9a11e
https://www.atpress.ne.jp/news/363316
問4
屋久島の宮之浦岳に登った事は、私の中で非常に強い体験として残っています。あの時は頂上まで登ることなく、体調が悪い人が出たために、途中で野宿して下山しました。そのことも含めて私の中では強い体験です。40代後半から50歳にかけて取り憑かれたように九州の山に登りました。宮之浦岳の体験が原点となっています。関口先生にとって、山とはどういった存在だったのでしょうか? 山に対する思いを教えていただけますか?
答4
お話を伺い、「問3」同様、びっくりしました。ただ、自分にとって「山」が何であるかは、長いあいだずっと考えつづけてきたものの、それを言葉にするにはいたっていません。
問5
関口先生の特別講義〜日本人の自然観、真の自然と観念としての自然〜
当時の私にとっては今まで聞いたこともないような講義でした。この視点はいつの間にか卒論の軸になりました。真の自然に対峙できるのは、文学ではなく、科学か宗教という説も見えている景色が変わるようなものでした。当時の講義の解釈が間違っていたらすみません。となると、先生はどちらかというと、この辺から文学からは少し遠ざかっていかれたのでしょうか? 研究テーマの変遷などお聞きしたいです。
答5
まず‥‥僕は自分が何かを「研究している」とか、自分が「研究者である」と思ったことは一度もありません。大学や学術振興会などに提出する書類では仕方がないのでそういう「分類」を選び、「記入」したとしても、本音ではありません。いろいろなことを「勉強」はしたし、「教える」こともしてきたのは確かですが、「研究」は僕にはとても抵抗のある、無縁な言葉です。
本を読まなくなったのは20代後半だと思います。ポーランド留学から戻ってしばらくしての時期でしょうか。同じころに音楽会や展覧会にも行かなくなりました。文学や藝術に対しては、むしろ嫌悪に近いものが先立つようになりました。それと反比例するように、心身はいよいよ「山」に向いていったように思えます。熊本大学から東京工業大学に戻ってから、この傾向はさらに強まりました。そこで東工大の学生たちといっしょに勉強したのが「自然観」というテーマでした。熊大での集中講義にはそれを持って出かけたのではなかったでしょうか。理工系の学生たちと、「副専攻」のような位置づけの人文系の疑似ゼミ(当時の東工大用語で「総合講義B」)ができてよかったと思います。何年にもわたってつづけましたが、とても楽しく、勉強になりました。自分のものの見方の多くがこの授業を通じて形づくられたと思っています。
問6
先生が熊大を辞して帰京される際、東京までの車旅の途中、石鎚山に登り、山頂の石鎚神社上宮に参拝できたことはとても特別な経験になりました。ありがとうございました。高校生の時に、石鎚山で修行した行者さんに出会った経験があり、私にとって石鎚山は特別な山でした。またその他に立ち寄った場所や道筋――愛媛県の金山出石寺、高野山金剛峯寺、長谷寺、熊野古道など――を思い返すと修験道や空海に縁のある場所が多かったと思うのですが、修験道や山岳信仰についてどのようにお考えでしょうか? また現在はどんなふうに捉えていらっしゃいますか?
答6
その後も日本や欧州でいろいろな道やいろいろな山を歩き、いろいろな文献を読みましたが、結果として特に結晶した考えはありません。
問7
氏はユーミン、陽水などを評価していて、大貫妙子の「クリシェ」なんかもオイラは氏を通して知りました。最近のいわゆるj-popとか聴きますか? 評価してる存在いますか? いわゆる『文学』はもはやオワコンなのでしょうか?
答7
これまで経過した時間を考えてみると、自分の人生のちょうど折り返し地点くらいからは、音楽からも文学からもすっかり遠ざかってしまいました。自分にとって「終わっている」としても、それが世界にとって終わっているとはもちろん思いません。
問8
ショパンについてお聞きします。先生の考える傑作選、死ぬまでにこの曲は弾いておいたがいいよ、という5曲を教えていただけませんか? また平野啓一郎『葬送』を読まれていましたら感想をお聞かせください。平野さんの分人主義は先生が熊大の頃、おっしゃっていた1対1の対人関係とほぼ同じような気もします。分人主義もご存知でしたら考えをお聞かせくださいますか。
答8
残念ながら、それほどショパンを聴いてもいないので、「選ぶ」ことができません。(ピアノを?)弾くということになれば、なおのこと僕にはわかりません。
『葬送』を読んだ時は、すごい才能だなと思いました。自在に、精緻に、言葉を操る力に圧倒されました。常人では考えられないような彫刻、編み物、タペストリーのようなものの持つ力。
「分人主義」というものを調べてみましたが、たぶん似たようなことを僕も考えていたし、今もそれは変わらないと思います。アイデンティティという言葉を疑い、使わなくなってからももうずいぶん時間が経ちました。
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