第8回ヒカクテキ読書会「スノーグース」(ポール・ギャリコ)
1月27日午後7時半より
※この報告の長さについて、わたくしすでに反省メーターが振り切れてゼロですので、可能な範囲で読んでくだされば幸いです。
のっけからアレですが、わたくしうっかりしておりました!
新潮文庫「スノーグース」には、「スノーグース」「小さな奇跡」「ルドミーラ」の3つの短編が入っています。特に直接の繋がりはないのですが、その全部を通して読むと何ともイイという、とても良く考えられたアソートになっています。だから一冊丸ごとが課題図書のつもりだったのに、ちゃんとそうお伝えしていなかった!
と、直前に気が付きました。
中でも「小さな奇跡」が一押しなのに…。
とにかく、ご用意した資料は3作品分。
「スノーグース」は1930年~1940年のイギリスはエセックスの海に近い荒涼とした沼地が舞台。
「小さな奇跡」は1950年代のイタリアの都市、歴史あるアシジとローマが舞台。
「ルドミーラ」はそこから100年程昔のリヒテンシュタイン公国の山々を望む緑豊かなアルプス高地が舞台。
と時代も場所も様々です。
どのお話も、冒頭はまるで紀行文のよう。その地方の特色ある風景や歴史、人々の生活や動物の描写が丹念に描かれていて、物語本編が始まるのはその後、という構成になっています。
そのため、読み始めてすぐに、読者はまるで自分がその場所にいるような気持になって、一気に物語の世界に連れていかれます。
その体験をなるべく鮮やかなイメージにしていただきたい。
そんな思いからご用意した写真や絵の資料を見ていただきました。
(ほとんどが借り物の写真なので、ここにアップはできません。見たい方はご連絡ください)
また、「スノーグース」の物語の下敷きになっているのは、「ダンケルの戦い」もしくは「ダンケルの奇跡」と呼ばれる第二次世界大戦時の英仏連合軍の約35万人の将兵の脱出劇です。
このことは、この物語を読むにあたって知っておくべく事柄だと思ったので、詳しく口頭で説明させていただきました。(この報告の末尾に近いところで、それについての簡単な説明資料を作りました)
また、3つの物語のすべてに、重要なモチーフとして愛すべき動物がでてきます。
「スノーグース」は雁、「小さな奇跡」はロバ、「ルドミーラ」は牝牛です。
以上を踏まえて、みなさんの感想をうかがっていく段取りとなりました。
Nam(私です)
ポール・ギャリコを選んだ理由ですが、私は時々もう心底から人間が嫌になることがあって、嫌で仕方がないからちょっとどうしたもんかと思って、まあ、子供の頃にいくつか読んだポール・ギャリコでもまた読むかと。
それと、みんなに泣いていただこうと思ったりもして。ピュアな心の持ち主は泣くだろうと…(笑)
でも、皆さんは、3つのお話全部は読んでないと思うので、「スノーグース」を中心に。
では、最初にポール・ギャリコについて少しだけ。
1897年アメリカ生まれ。両親は移民で父親はイタリア系。
ニューヨークでスポーツ系の記者をしていたが、ボクサーとスパーリングしたり、野球選手の球を受けたりと、そんな体当たりの体験記事で大人気となる。
その後、イギリスに移り住んで小説家となり、雑誌向けの短編で成功する。1941年にオー・ヘンリー賞を受賞。
彼の作品は小難しいところのない、美しい、もしくは楽しい『物語』です。
映画の原作になっていることもしばしばで、有名なものは「ポセイドンアドベンチャー」「ミセス・ハリス・パリへ行く」などです。
彼が自分のことを評した言葉がユーモアがあって面白いです。
「私は作家という柄じゃない。物語を語ることが好きなだけで、私の書いた本はみんなお話を語っているだけだ。もし2000年前に生きていたら、洞窟を渡り歩いてこう言うだろう。
『やあ、入っていいか?腹が減ってるんだ。食べ物をくれたらかわりに面白い話をしてやるよ。昔々、2匹の猿がいたってさ』そして彼らに2人の人間の話をしてやるんだ」
それから、彼はこの本にでてくるリヒテンシュタインなど色々な国に住んだ経験がありますし、この本にも色々な動物がでてきますが、大の動物好きです。
『ジェニイ』『トマシーナ』は猫の話だし、他にもネズミなど色々な動物を主人公にしています。
Hさん
作者紹介のところに「猫好き」って書いてあるよね。わざわざ書くってことは相当に…。
Njさん
今日、菊池の方の人間ドックに行ってきたんだけど、窓の外にロバ…ではないんだけど、ポニーがいた。可愛かった。「スノーグース」だけ読んだけど、すんなり読めた。読んで違和感を感じた部分が2つあった。一つは女の子の言葉。これはFさんに聞いてみたいなあと思う。(Fさんは当日欠席でした)もう一つはラヤダーのこと。それまでは平和主義者に思えたのに、いきなり好戦的というか、目の色が変わってびっくりしたけど、今、「ダンケルクの戦い」の説明を聞いて、納得した。
Kさん
女の子の言葉、僕はイイなと思いました。
Nam
これは翻訳で、原文読んでないから元がどんな表現なのかはわからないけど、サクソン人の言葉っていうことだろうね。沼地で牡蠣をとって暮らしていて、あまり裕福な暮らしではなくて、この少女も素朴というよりむしろ粗野な感じで。
翻訳する時に、日本の方言を使ったりすることってあるよね。例えば田舎者を表す時には「おら~だべ」とか、あと、「わし~じゃ」と言ったらおじいさんとか、そういう決まりもの。でも、ここに出てくるのは、どこの方言でもない気がするから、翻訳者の工夫した言葉なんだろうね。
Saさん
私は、お話し3つとも読みました。動物や、少年少女がでてきて、心が洗われるような気持がしました。「スノーグース」はちょっと違うんだけど、2つ目と3つ目のお話しには『信仰心』がテーマになっていると思いました。私は2つめのお話が好きです。
Nam
「小さな奇跡」いいよね?あの男の子がくじけないんだよね。読んでる私の心がくじけそうになっても、あの子はくじけないんだよ。不幸な境遇なんだろうけど、自分のことを不幸と思っていなくて、黒い瞳がキラキラしてて、少年ジャンプの『友情、努力、勝利』じゃないけど『愛と勇気』で真っすぐに大切なロバのために頑張るとこ、涙でちゃうんだよ。
Saさん
悪い人は出てこなくて、牧師さんも、まわりの人も、みんないい人たちなんだよね。
Hさん
私はどのお話しも読んでない…読んでないけど、来ました。
(もちろん、超オッケー!)
Hさん
読んでないけど、この作者の原作の映画「ポセイドンアドベンチャー」は見たことがあって、みんなを助ける牧師さんが出てくるんだけど、色々と驚くような映画で、こんな映画があるんだとびっくりしました。
さっき見た資料も、ロバが可愛かったり、ハーブが綺麗で、それで、さっき「人間が嫌になった」っていう話があったけど、この前猫を飼っている作家の話をしたので思ったことがあって、私は今は動物は飼ってないけれども、花は好きで、花を見ると癒されるんだけど、動物や花を可愛がる気持ちは、動物や花が話しをしないからではないか。花で癒されるのは、見た目もあるんだけど、花は何も言わないのがいいんじゃないかな。
Nam
そういう人もいるだろうね。でも、私が花や動物で癒されるというか、好きなのは、何も言わないからじゃないんだよね。最近の研究では、植物も色々な情報を出しているし、うちの犬はとってもしゃべるし。
(バカな飼い主発言をしてしまったし、真っ向から反論したみたいになってHさんごめんなさい。私が花や動物が好きなのは、生きているからです。生きていることに癒されます。そして、自分とは違う種類の生き物で興味深いからです。綺麗とか、可愛いとか、もちろんそう思うけど、なぜそれを私は綺麗とか可愛いとか感じるのか、そこもまた興味深いです。
でも、私が心底人間が嫌になっている時は、それは人間でない花や動物では解消できません。人間の中に見つけられる希望のような何かが必要です。で、どうかな?と思ってポール・ギャリコを選んでみました)
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※ここでHさんの話にでてきた映画、ポセイドンアドベンチャーの話をしてみます。
小学生の時にテレビで見ただけなので、記憶違いがあったらご指摘ください。
大型客船が爆発して、乗客を乗せたまま海に沈むという緊迫した状況のなか、ひとりの牧師がリーダーシップを取って人々を助けようとする。
その後流行したパニック映画の先駆けです。
大型客船の構造を生かした設定で、船がクリアするべき複雑なダンジョンのように扱われているのが面白かったです。次々と爆発が起きたり、浸水したりする危険をかいくぐって、人々は機関室を目指して進んでいきます。
最後は、牧師が犠牲となって、皆を助けます。
私が好きなシーンは、皆がつかまって水の中を潜って進む為の命綱にするロープを張るシーンです。
最初にロープを持って潜っていった牧師は帰って来ません。
残された人々の中に、いかにも善良そうな太った年配の夫婦がいます。
その、のんびりぽっちゃりした奥さんが、自分はシニアの水泳の選手で潜水が得意だと名のり出て、勇敢にも命がけで牧師を助けにいくのです。
残った旦那さんもにこにこして、「うちの家内は水を得たらすごいんだ」と心から奥さんを信頼しているのです。
結果、その奥さんのおかげで、みんなは助かることになるのですが、本人はあまりにも長く息を止めて潜っていたので心臓発作を起こして亡くなってしまいます。
牧師も、この奥さんも、ごく普通の人でありながら、いざという状況では人々の為にすべきことをなす、そんな勇気と自己犠牲の精神の体現者です。
そして、それは「スノーグース」にも通じる、ポール・ギャリコの書く物語の大切なテーマでもあるんだろうな、と個人的には思います。
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Kさん
今日やっと本が届いたので、スノーグースだけ読みました。僕は、考察が好きで、いつも裏を読もうとするところがあるんだけど、ラヤダーは肉体的にはハンディーがあれこれあるが器用で、鉤のように曲がった手で船もあやつれて、そんなラヤダーの過去は何?と思う。この時代は身障者が多かったのか、事故などの後天的なものなのか、そもそも「せむし」って何?そういう設定にする必然性はどこにあるんだろう?
Nam
どうしてラヤダーをせむしで手が鉤爪という設定にしたのかという話だけど、私はこれはいわゆる「心優しきモンスターと汚れ無き少女の物語」のパターンなんだろうと思ったんだよね。
例えば「フランケンシュタイン」とか「シザーハンズ」とか、異形であるから人間社会に交われない哀しみを抱えている孤独な存在と彼と心通じ合う無垢な存在としての少女。
異形という設定は、その孤独と哀しさを際立たせるためのものだと思う。
他には何があるかなあ…。
Hさん
「美女と野獣」とか。
Nam
それもだね。
せむしってことなら「ノートルダムのせむし男」、あれは相手は少女じゃなくって、どちらかというと毒婦だけど、その毒婦が、知能も低くて汚くて醜いせむし男があんまり自分のことを一途に好きだから、ちょっとだけほだされるんだよね。
まあ、とにかくそういう「心優しきモンスターと汚れ無き少女の物語」のパターンは、昔から色々あるんだよ。そこにロマンがあるというか、社会にうまく適応できない自分を投影して共感したり。
っていうか、Kさんは、「せむし」って何だか分かる?
Kさん
知らないです。「せむし」って…背中に虫がいる?
みんな
いや、虫はいないし(笑)
Kさん
Wikiにそう書いてある。背中に虫がいると思われてたから、「せむし」と呼ばれたって。
Nam
「せむし」って、たぶんカルシウム異常なじゃないかと思うんだけど、背中が瘤のように盛り上がってるんだよ。骨に異常がでる病気。
ラヤダーは、手も鉤爪みたいに変形していて、それも含めて事故でそうなったんじゃなくて、恐らくは先天的に何かがあるのかもしれないね。
で、今ではコンプライアンス的に問題になるだろうけど、異形の代名詞のひとつとして、「せむし」っていうのは昔から小説とか映画とかで良く使われてきたんだよ。
他に同じように異形として扱われてきたものには、昔は「ライ病」と呼ばれていた「ハンセン病」があって、中世あたりのことを描いたものとかに、恐ろしい伝染病に侵された異形の差別される存在として使われていて、頭から布をかぶって崩れた容貌を隠した姿ででてくる。
割と最近になっても、栗本薫が「グインサーガ」の中で「ライ病」をそういう風に描写して、病気に対する間違った情報と差別を広めるということで訴えられたんだよね。
Kさん
心優しいモンスターと少女、ということだけど、モンスターは男性なんですよね?女性のモンスターは?そういう話はないのかな?
Nam
「心優しい女のモンスターと少年の物語」ってこと?
(…みんなでしばし考えるけれども、これといったものは出ず)
Njさん
お岩さんは?嗤う伊右衛門とか。ちょっと違うか…。
Nam
お岩さんは…祟るからなあ。違うよね。
女はさ?もうそれだけで怖いから、わざわざモンスターにしなくていいってことじゃない?(冗談です)
Hさん
絶世の美女なんだけど…
(Hさんは謎の言葉を発したまま席を外してなかなか戻ってこない)
みんな
絶世の美女がどうしたの~っ!
Hさん(戻って来た)
なに?
みんな
絶世の美女だよ、美女がどうしたの!?
Hさん
あー…、絶世の美女じゃない。
そうじゃなくて、可哀そうな美しい女性。
森鴎外の「舞姫」にでてくるエリスは、留学した鴎外と出会って恋人関係になるんだけど、美しい人だけどまずしい踊り子なんだよね。で、結局は鴎外は日本に帰ってきて、二人は別れることになって悲恋で。
Nam
それと「スノーグース」とどう関係あるの?
Hさん
…関係は…ないなあ。
(ちょっと面白過ぎる。自由でいい。…関係はないって言うけど、たぶん、思い起こさせるきっかけになったものが何かあったんだろうけどね)
ここからまた少しみんなでなんだかんだ話したんですが、ひとつ分かったことは、「Kさんは、女性を庇護する気ゼロ」ということでした。
「女性は庇護されるべきもの」というイメージ自体、前時代的なものでもありますから、「ゼロです。勝手にやっててくれ」というKさんの発言はなかなか爽快でした。
さてここから、ほぼ私の感想です。
話を「スノーグース」に戻します。
「スノーグース」の主人公ラヤダーは、醜い容姿のせいで人々と交わることを避け、荒涼とした沼地の古い灯台小屋で隠遁生活をしています。沼地に生きる様々な鳥たちを愛するラヤダーは、たくましく、また心優しい男で、そんな生活をしながらも心には憐れみと思いやりがあふれていて、人間を、動物を、あらゆる自然をとてもとても愛しています。
ある日、傷ついたスノーグースを腕に抱えて、フリスという少女が訪ねてきます。そして、細くつながる糸のように、二人の交流は続きます。7年という年月をかけて、少女はラヤダーを愛するようになっていきます。
しかし、第二次世界大戦が勃発します。静かだったエセックスの沼地もその戦争から隔絶された世界とはなり得ませんでした。轟く砲弾や爆発の音が、鳥たちを脅かします。
そんな中、あのスノーグースはラヤダーのところに定住することを選びます。
そして、ある日、ラヤダーはヨットで出ていきます。ドイツ軍に追い詰められたイギリス軍の同胞たちを救うために。
スノーグースも彼と共に行きます。
フリスは取り残され、ラヤダーは帰って来ません。
そこからの描写は特に素晴らしいと思うのですが、戦争にかかわった人々の話を聞き書きした体裁で、まるでルポルタージュのようでもあり、極限状態の戦地にありがちな神話的体験による噂話のようでもあるように、ラヤダーの最期についての目撃談が語られていきます。
そのため、ラヤダーという人間が本当に存在したかのように読者の胸を深く打ちます。
ただ、機関銃に穴だらけにされる瞬間などの生々しい描写はありません。どこまでも静謐にお話しは進んでいきます。
ラヤダーのいなくなった古い灯台小屋は、ドイツ軍の爆撃に破壊されてしまい、土手から流れ込んだ海水に飲み込まれて、その暴力的な跡さえも覆い隠されます。あたかも最初からそこには何もなかったように、ラヤダーの生きていた証拠も全て消えます。
そして、その爆撃がまぬけな誤爆だったということが、戦争が人々の暮らしを破壊することのむなしさをいや増して際立たせます。
ひたひたとただ水に浸された静かな風景と、いなくなった鳥たち、ただカモメ達だけが昔の風景を懐かしんで鳴きながら空に飛んでいる描写で、物語は静かに終わります。
ラヤダーが参加した「ダンケルクの戦い」は、実際に多くの民間人が参加した救出作戦でした。この救出が成功しなければ、もうイギリスは兵力不足で戦えず、ドイツに降伏するしかない状況でした。
しかし、助けたくても、国には船が無い。
そこで、チャーチルは前代未聞の「ダイナモ作戦」を指示します。
チャーチルの号令で馳せ参じた370隻の民間の釣り船、遊覧船、漁船などの小型船が、ダンケルクの浜辺と沖に泊まった大型船とを往復して、ドイツ軍に追い詰められて全滅する寸前だった40万の連合軍から、34万とも35万ともいわれるものすごい数の兵士たちを救出したのです。
民間人の船長達の多くは、船を貸すだけではなく、ドイツ軍の急降下爆撃機をかいくぐり、直接その任務をやりとげました。
また、ラヤダーの灯台小屋が爆撃されたのも、同様のことがイギリス本土で起きていました。「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれた戦いで、ドイツ軍はイギリス本土に爆撃を繰り返します。軍需関係の建物と間違った誤爆もかなりあったようです。
「ダンケルクの戦い」は1940年。
「スノーグース」がサタデー・イブニング・ポストの別紙に発表されたのも1940年。
同胞の救出に沸き立った人々が、この美しい物語にどれほど胸打たれて熱狂的に受け入れたのかは、想像に難くありません。
救出された兵士たちは、誰かの愛する親や息子や兄弟や夫や恋人だったことでしょう。
また、救出に向かった人々の中には、爆撃で命を落とした人もいたことでしょう。
ラヤダーの物語は、そんな「名もなき英雄達」のひとりにラヤダーという名前を与えて、物書きの豊かな想像力を膨らませて美しい物語を紡いだものです。
そして、ラヤダーを見送った時にすでにその死を覚悟したフリス、愛する人の帰りをひとりでじっと待ちながらも、死のお告げを受けて静かにそれを受け入れるフリス。それもまた、戦時下における多くの人々の姿だったことでしょう。
そこでひとつ気になるのは、この物語に「戦争礼賛のプロパガンダ」としての側面があるのかどうかということです。
私個人としては、そうではないと考えます。
ラヤダーの行動は、勇敢で英雄的ではありますが、彼は戦いに赴いた訳ではありませんでした。
ラヤダーがヨットに積んだのは、食べ物と飲み物、ブランデー、ギヤーと予備の帆、それだけです。
人間と動物を愛してやまなかったラヤダーは、傷ついたスノーグースを助けたように、追い詰められた兵士たちを救おうとしただけでした。
顔にフリスが見たこともない熱意とある表情をただよわせていたのも、好戦的な興奮ではなくて、人々の社会から遠ざからざるを得なかったラヤダーが、命がけで自分のなすべきことを見つけた喜びの表情だったのだと私は思います。
また、どこまでも静かで、興奮を煽らない作者の筆致にも、そう感じます。
ポール・ギャリコは、彼がいつもそうであったのと同じ気持ちで、この物語も書いたのではないでしょうか。
人が人のために心を尽くすということ、勇気を持ち続けること、普通の人が自分の務めをただ一生懸命果たして生きることこそが尊いということ、を。
人間が心底嫌になった時に私に必要なもの。
それは、「クソみたいな世の中で、クソみたいな人間どもにはほとほと嫌気がさすけれども、それでも、まんざらこの世も人間も捨てたもんじゃないかな、と思わせてくれる何か」です。
小難しいことは何もないポール・ギャリコの書く「ただの物語」が、果たしてどういう力を持っているのか。ある意味単純で、古臭く…でも人を信じて決してぶれない。そんな羨ましいような力強さが彼にはある気がします。
ふと気が付いたら、日本の小説もマンガも映画も、ディストピアの概念に侵されてしまっていました。閉塞的な希望のない世界。それが今の若者のリアルなのかもしれません。
何重にも囲われた高い塀の中から出られない人々、塀の中の安住をある日恐ろしい巨人が破壊し、襲ってくる。有名なマンガのその設定を見て、作者が大分のみかん農家出身だと知った時に「ああ、なるほど。地形がそのままじゃないか。しかも、大分の田舎。自分のおかれた閉塞的環境のメタファーか」と思いました。
となると、「巨人は実は人間だった」となるはずだし、読んでないけど(読んでないのか!)たぶんそうなったんじゃないかと思います。
まあね、現実はクソです。そして、今の時代がまたものすごく危うくて酷い状況なのは本当。
でも、それはいつの時代でも実はそうなんじゃないでしょうか。
勇気を持ちたいね、人には優しくありたいね、そして、どこまでも自由でいたいね。
今回の「スノーグース」の私の感想は、つきつめると結局はただこれだけです。
だけど、これってけっこう大切なことじゃないですか?
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※文末追記「ダンケルクの戦いの経緯」「ウインストン・チャーチルの演説」
それから、最後の最後に「『マチネの終わりに』に関する特別なおまけ」があります。
■ダンケルクの戦い(ダンケルクの奇跡)の経緯
・1931年9月1日
ドイツ軍はポーランドへ侵攻し、勝利する。
同盟国であるイギリスとフランスはドイツに宣戦布告するものの、実際は動かず。
・1940年5月10日
ドイツ軍は突如オランダとベルギーとルクセンブルグに侵攻。
オランダ降伏後、ベルギーに侵入。5月28日ベルギー降伏。
まさかと思っていて驚いたのは、同盟国であるイギリスとフランス。
とうとう2国の連合軍参戦。
・1940年5月13日
イギリスでチャーチルが首相就任。
・1940年5月17日
ドイツ軍のフランス侵攻。北フランス席捲。
・1940年5月24日以降
ドイツは戦車や航空機を駆使した電撃戦を展開。
おとり作戦によって連合軍の後方を突破。40万の連合軍をダンケルクの海岸に追い詰める。
着々とダンケルクを目指していたドイツ戦車部隊は、ある理由からヒトラーの命令でストップ。
その2日後、チャーチルの命令で奇想天外な「ダイナモ作戦」が行われる。
約35万の兵士たちが救出される。その間、フランス艦隊は無能。
3日後にストップ解除されたドイツ戦車部隊がダンケルクに着いた時、そこはもぬけの殻だった。
・1940年6月14日
ドイツ軍フランスのパリへ入城。
・1940年7月10日以降
バトルオブブリテンと呼ばれるドイツ空軍とイギリス空軍の爆撃戦が行われた。
ドイツ軍はイギリスの本土侵攻を目指していた。
ドイツ軍は目標設定を誤ったりしたため、ロンドンを空爆することにした。
イギリスは報復としてベルリンを爆撃。
ヒトラーはこれに怒ってロンドンのバッキンガムや国会議事堂を爆撃。
2万人が死亡するも、チャーチルはこれに屈さず、国民もまた一致団結。
市民は地下鉄の駅に避難して抵抗。
10月にとうとうイギリス空軍はドイツの本土上陸をあきらめさせた。
・1941年12月8日
真珠湾攻撃により、アメリカ参戦。日本参戦。
イギリスはずっと心待ちにしていたアメリカの参戦を大歓迎。
ドイツも「三千年も他の国に負けたことのない日本が味方になった」と日本の参戦を歓迎。
・1944年6月6日
連合軍によるノルマンディー上陸作戦。
・1944年8月19~25日
連合軍によるパリ奪還。
・1945年4月24日
ソ連軍ベルリン包囲
・1945年4月30日
ヒトラー自殺
ヒトラーは、何度もチャーチルに和平を申し入れるが、チャーチルはそれを拒否。好戦的な性格であったチャーチルは、またヒトラーと同じ演説の名手でもあった。
不屈の精神でナチスドイツの侵略から国を守った英雄と言われたチャーチルであったが、戦争後は失脚。
近年のロシアのウクライナ侵攻の際、キーウに残ったゼレンスキーを称して世界のメディアはこう書いたらしい。
「プーチンの誤算はウクライナにチャーチルがいるということを知らなかったことだ」
ゼレンスキー本人もまた、イギリスの議会にオンラインで声明を届けた時、有名なチャーチルの演説を引用した。「我々は、決して降伏しない。いかなる犠牲を払っても、我々は祖国を護る…」と。
(ゼレンスキーが今後、はたして英雄と賞賛されることになるのかについては、疑問ですが)
※ダイナモ作戦(ダンケルクの戦いの救出作戦の名前)
ダンケルクに追い詰められた40万の連合軍兵力を失うと、イギリスは戦争継続が不可能となり、ドイツに降伏せざるを得ない状況だった。
しかし、それだけの将兵を救出するには、圧倒的に船がなく、また浅瀬で大きな船は停泊できなかった。
そこで、チャーチルは、国中の民間船をかき集めて救出に向かうという奇抜な作戦を行った。遊覧船、漁船、釣り船、ボート、など370隻が集まり、民間人も多く作戦に参加した。
ドイツ軍の急降下爆撃機の攻撃をかいくぐり、34万とも35万ともいわれる将兵を救出することに成功した。
そして、このことは、国中で熱狂的に喜ばれた。
しかし、敗退には変わりなく、ドイツ軍をひきつける役割だったカレーにいた3万の兵は失われた。また、全ての重装備を失い、イギリスは深刻な兵器不足となった。
■ウインストン・チャーチル演説(1940年5月13日 首相就任演説後半)
(もしも訳が変なところがあったらこっそり教えてください)
私は確信する
もしも全ての国民が己の責務を果たし それをおろそかにすることがなければ
もしも今までのように最善の準備がなされるのであれば
我々は再び証明するであろう
すなわち
我々は故郷の地を護りぬき
戦争の嵐を乗り超えて
独裁者の脅威に耐え抜くのだ
たとえ何年かかっても
たとえ我が国だけになったとしても
たとえ何があろうとやり通す
これこそが陛下の臣民たる者すべての決意であり
これこそが議会と国民の確固とした意思なのである
大英帝国とフランス共和国は
その正義において共にあり
この難局において共に立ち向かう
最良の親友のごとく力の限り助け合って
我らの祖国を死守するであろう
例えヨーロッパの広大な地域
多くのいにしえからの有名な国家が
忌まわしいゲシュタポやナチスの支配に次々に落ちていったとしても
我々は気力を失うこともなければ 失敗することもない
我々は最後まで戦い抜く
我々はフランスで戦う 海で 大洋で 我々は戦う
我々は日々増す自信と力をもって 空で戦う
我々はいかなる犠牲を払おうとも 我らの島を護る
我々は岸辺で戦う 上陸地点で戦う
我々は野原で 街路で戦う
我々は丘で戦う
我々は決して降伏しない
そして
そうなるなどとは断固として私は信じないが
もしもこのイギリス本土の大部分が敵に征服され
飢えに苦しむことになろうとも
我々の帝国は海を越え 英国艦隊に護られつつ なおも戦い続けることだろう
神のご加護によるその時がくるまで
新世界がその力の全てを使って 旧世界を救助し開放する
その時がくるまで
I have, myself, full confidence that if all
do their duty, if nothing is neglected, and if the best arrangements are made,
as they are being made, we shall prove ourselves once again able to defend our
Island home, to ride out the storm of war, and to outlive the menace of
tyranny, if necessary for years, if necessary alone. At any rate, that is what
we are going to try to do. That is the resolve of His Majesty’s Government —
every man of them. That is the will of Parliament and the nation. The British
Empire and the French Republic, linked together in their cause and in their
need, will defend to the death their native soil, aiding each other like good
comrades to the utmost of their strength. Even though large tracts of Europe
and many old and famous States have fallen or may fall into the grip of the
Gestapo and all the odious apparatus of Nazi rule, we shall not flag or fail.
We shall go on to the end, we shall fight in France, we shall fight on the seas
and oceans, we shall fight with growing confidence and growing strength in the
air, we shall defend our Island, whatever the cost may be, we shall fight on
the beaches, we shall fight on the landing grounds, we shall fight in the
fields and in the streets, we shall fight in the hills; we shall never
surrender, and even if, which I do not for a moment believe, this Island or a
large part of it were subjugated and starving, then our Empire beyond the seas,
armed and guarded by the British Fleet, would carry on the struggle, until, in
God’s good time, the New World, with all its power and might, steps forth to
the rescue and the liberation of the old.
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【おまけ】マチネの終わりに関するHさんからのご報告
私が参加している「文学の森」という平野啓一郎さん主催の読書会があります。そこで、この一年を振り返って平野さんに直接質問できるという機会があったので、いくつか質問してみました。その結果をお知らせします。
まず「大学の同窓会で『マチネの終わりに』の読書会をしました」とお伝えしました。
そして、洋子と早苗では早苗の肩を持つ人が多かったこと。洋子の「それであなたは幸せなの」という言葉を怖いと言われて驚いたということもお伝えしました。
「文学の森」では、数人の人が洋子について語っていましたが、洋子を好きな人は少なかったです。「なぜなら、美しくて純粋であるだけで、持たざる人からみればそれは罪であるから」と言われていました。
平野さんは、「早苗を悪く書く気はなかった」と言われました。「槇野も洋子も、天才的な人は孤独。音楽家にそういう人は多くて、例えばアルゲリッチは天才だけどやはり孤独で、孤独だからこそむしろ社交性を身につけなければいけなくなる」そうです。
序文についてですが、「槇野と洋子のどちらかがひょっとしたら亡くなっているのでは?」と質問したところ、「するどい質問ですね」と言われていました。(序文に関する考察は読書掲示板にあります)
「事実に関しては、想像にお任せします」だそうです。
また「僕みたいな小説家が書いた序文で、序文もフィクションと考えてもらってもいいかも」とも言われました。
『マチネの終わりに』で、自殺した人がでてくるんですけど(武知)、平野さんの小説には自殺する人が時おりでてきます。
平野さんがおっしゃるのには、「彼の自殺に深刻なテーマがあった訳ではなく、音楽家は華やかな感じがするけど、決してうまくいっている人ばかりではない」だそうです。
Namさんが、「『うまくできない人』のことを無かったことにしない平野さんの視線に優しさを感じる」と言ってたけれども、平野さんは優しい人です。
※Hさん本当にありがとうございました。
作者の方に直接色々なことをお聞きできるなんてなんて贅沢なんでしょうか。
とにかく、感謝感謝です。
<文責 ナンブ>