カテゴリー: 読書会

  • 第2回ヒカクテキ古典部「羅城門」報告

    728日(日曜日)午後7時半より

     

    今昔物語「羅城門」巻第2918

        「太刀帯陣売魚嫗語」巻3131話 

    芥川龍之介「羅生門」

     

    今回は参加者が5人と、またじわりと増えて、大変嬉しいことでした。

    担当者のNjさんが中心となって、今昔物語の「羅城門」と、芥川の「羅生門」を参加者全員で読み比べてみました。

     

    まず「羅城門」「羅生門」という名称の違いについて。

    これはそもそもは「羅城門」と表記され、「らじょうもん」「らしょうもん」のどちらとも呼ばれていたことから、中世には「羅生門」と表記されるようにもなり、能にも「羅生門」という演目があるそうです。

    芥川は、そういう事情から「羅生門」という名称をセレクトしたのだろうということでした。

     

    平安京の羅城門は「朱雀大路」の南端に位置する門で、816年に倒壊し、再建されるも980年に再び倒壊し、現存していません。

    南北約8メートル、東西約32メートルの二階建て構造のとても大きな楼門だったようです。

    この物語の頃には、すっかりと荒廃して崩れかけた様子となっています。

     

    「羅城門」の文中にでてくる用語について、図を参考にしながら説明がありました。

     

    「頭身の毛も太る」という表現は他にも今昔物語にでてくるそうですが、ぞっとして頭の毛が逆立つ感じを、体感的に「髪が太る」というのは良く分かる気がします。

     

    また、「鬼は怖いが、人の霊ならそうでもない」という当時の概念がでてくる参考資料として、「陰陽師」の映画の一部を見ました。

    男に恨みを持った女が、男を呪って生なり(鬼)に変化していくシーンで、安倍清明が鬼になった女に驚き慌てるという様が、鬼というものの特別感を表していました。

     

    芥川の「羅生門」は、「羅城門」を下敷きにしていながら、より詳しく色鮮やかな脚色がなされており、「さすがだなあ」といううまさがあるというNjさんの感想でした。

     

    他の方の感想としては、Haさんの「近代文学の特徴なのではないかと思うけれども、最初と最後の印象深さ、文の美しさが心に残る」ということでした。

     

    私の感想としては、「羅城門」では男は最初から「盗人」であるのに対して、芥川の「羅生門」では「下人」であって、その「下人」が「盗人」へと成り代わっていく複雑な心の動きがこの物語の真骨頂ではないかと思いました。

    そして、この下人には頬に大きな面皰があり、それをずっと触って気にしているのが、迷っていた気持ちが吹っ切れて、盗人に変貌するシーンでは、面皰から手を放してもう気にもしなくなるという設定が、面白いというか、独特というか、印象深かったです。

     

    Njさんの指摘がありましたが、「羅生門」では、老婆を様々な動物に例えています。

    猿、猛禽類、鴉、ひきがえる、など。

    猿は老いて体が細く縮こまり、しわだらけになった老人を例えるのに良く使われる比喩ですが、確かにニホンザルは赤ん坊でもすでに顔にしわが寄ってて年寄り臭い顔をしています。

    対して、下人を動物に例えているのは、猫やヤモリで、いずれも静かに身を潜めている比喩です。

     

    私は「南禅寺の門などの階段を参考に考えると、恐らくはこの階段も容易には登れないほどに急なものなのではないかと思われ、そうなるとヤモリのようによじ登る様は、的確な比喩だという気がする」と発言し、しかし、読み直してみると階段ではなくて梯子となっているので、それじゃあよじ登るしかないのは当たり前でした。

    勘違いです。

     

    芥川が「今昔物語」から「羅生門」に組み込んだもう一つのお話、「太刀帯陣売魚嫗語」ですが、これは蛇の切り身を干して、魚の干したものと偽って検非違使に売りつけて商売をしていた女の話です。

     

    「羅城門」では、老婆が鬘にしようと死体から髪を抜く相手は、自分が世話なっていた家のお嬢様となっていますが、「羅生門」ではそれが「蛇を魚だと偽って商売をしていた女の死体」に変わっています。

    老婆は、「だから死んで髪を抜かれる目にあっても当然の相手だ」と自分の行為を正当化しようとし、それを聞いた下人が「では俺がお前から盗むのもそれと同じことだ」という理由で、その行為に嫌悪感を抱いていた老婆から衣服や抜いた髪を強奪します。

     

    私は、人が犯罪を犯すことに、「飢えている」などの原始的な欲望ではなく「自分なりの正当性」が必要としたところが近代的だと感じます。

     

    それと、好き嫌いでいえば、「羅城門」の方が好きです。

    生きていた時は大切なお嬢様であった人の髪を抜く方が、どうしようもなく荒んだ都の状況が生々しく感じられるし、いざとなったらそんなことさえ平気でする人間のどうしようもない性が面白いからです。

     

    それと、以前の読書会の「マチネの終わりに」の回で、作者が作品の中に登場することについて「それはいつ頃始まったのか」という話題が出た時、全くいい加減に「近代文学からじゃないか?結構流行ったという気がする、例えば芥川とか」と発言したので、この「羅生門」にも「作者はさっき、『下人が・・・』と書いた」といきなり作者が登場するのを確認できて、少し安心しました。

     

    ところで、Saさんが「こういうお話を高校の教科書に載せていて、先生方はどんな風に教えているんだろう。生きていくために泥棒するのは仕方のないことなのか、それともやっぱりどんな状況でもいけないことなのか・・・難しいよね。」と疑問を出されました。

    そこから、昔の小説に描かれていることと、現代の倫理観などには齟齬ができつつあるという話題や、新しい小説ではどのようなものが掲載されているのかという話題になっていきました。

     

    そして、Kさんによると、ご自分が高校の時に教科書で読んだものは結末が違っていたそうです。

    教科書では、下人はまた盗みをする為に去って行ったというような終わり方で、今回読んだものは「下人の行方は、誰も知らない」と終わっているとのこと。

    Njさんは、芥川が結末を書き直していると説明していました。

     

    そこで、ちょっと調べてみました。

    どうやら、ラストは2回改稿されていて、3つのバージョンがあるようです。

     

    1915年(大正4年)初出時の最後の一文はこうでした。

    「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあつた。」

     

    1917年(大正6年)短編集『羅生門』(阿蘭陀書房)に収録された際には、以下のように改められます。

    「下人は、既に、雨を冒して京都の町へ強盗を働きに急いでゐた。」

     

    1918年(大正7年)短編集『鼻』(春陽堂)に収録された際に、現在の形へと変更されました。

    「下人の行方は、誰も知らない。」

     

    2つと、最後のものでは、大きく印象が違っています。

    最後のものでは、迷いに迷った結果、ふと踏み越えて盗人となった下人が、以後も盗みをするのかどうかは不明です。

    また、「誰も知らない」とすることで、読者に余韻を与えます。

     

    それと、読書会では言い忘れたのですが、作者が登場して下人の心情を解説する時にSentimentalismeと形容しているのが、ちょっと気障でこじゃれていますが、こういう英語を取り入れた表現は、外国の言葉とその概念がどんどん新しく入ってくるようになっていた時代独特のものであるのだろうと思います。

     

    ということで、他にも色々と楽しくおしゃべりしましたが、こんな感じで今回は終了。

     

    次は、825日。

    「平家物語」から「敦盛」とあとなにかやります。

    私が適当に何か用意してまいります。

     

    そして、Kさんから「夏向きの怖い話」をリクエストいただいたので、上田秋成の「雨月物語」を提案しました。

    それはまた後日やろうと思います。

     
    ゆるゆるのんびりとどこに向かうか分からない「ヒカクテキ古典部」ですが、Njさんがおっしゃるように「古典を読むと色々と広がる」ので、みんなで楽しく航海を続けていけたらなと思います。

    <文責 ナンブ>

     

  • 第15回(8月)ヒカクテキ読書会「ドライブ・マイ・カー」のお誘い

    8月18日(日曜日)午後7時半より

    「ドライブ・マイ・カー」(文春文庫『女のいない男たち』収録)
    作者:村上春樹


    いよいよ、というべきでしょうか?
    村上春樹の登場です。

    大好き?
    苦手?

    大メジャーながら、好き嫌いが極端に分かれる作家かもしれません。
    好きなら好きなりに、苦手なら苦手なりに、それが何故なのかをはっきりせるのも面白いかも。



    いつものように、読んでも読まなくてもご参加大歓迎、お好きな飲み物片手にお気軽にご参加お待ちしています。

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  • 第14回(7月)ヒカクテキ読書会「変身」のお誘い

    7月21日(日曜日)午後7時半より
    「変身」(カフカ)


    「流刑地にて」で一度取り上げたカフカですが、やはりこれは外せないでしょう、ということで「変身」です。

    前回の時にも「変身」の話がでて、ザムザが変わってしまったのはどんな虫?と皆さんの様々なイメージをお聞きしました。
    この論争にも今回で結論がでてしまうかも?

    それと、最近西先生がカフカについてブログやfacebookで述べられているとの情報もあり、「変身」を読むことでそのご発言の意味もひょっとしたら少しだけ分かるかもしれないと期待している方もいるようです。

    とにかく、絶対面白い、昔読んだ人も新たな発見があるはず、「変身」お楽しみに!

    いつものように、読んでも読まなくてもご参加大歓迎、お好きな飲み物片手にお気軽にご参加お待ちしています。

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  • 第2回ヒカクテキ古典部「羅城門」のお誘い

    7月28日(日曜日)午後7時半より
    ※7月7日予定が変更になりましたので御注意ください。

    羅針盤を持たずに夜の海に舟を漕ぎだしたような危なさ満載のこのヒカクテキ古典部も、2回目を迎えて感無量。

    今回は「今昔物語 羅城門」「羅生門」(芥川龍之介)を読み比べます。
    担当者の中島さんがどんなお話をしてくださるのか、とてもワクワクです。

    ご参加の皆さんは、できれば芥川のものを読んでおいてくださると、より楽しんでいただけるのではないかと思います。

    もちろん、「読んでも読まなくても、発言しなくても大歓迎」です。
    飲み物片手にお気楽にどうぞ!


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  • 第13回ヒカクテキ読書会「肉弾」報告

    616日(日曜日)午後7時半より

    『肉弾』河崎秋子(2017年、(株)kadokawa

     

    2023年に「ともぐい」で直木賞を受賞した作家の、様々なテーマを内包しつつもエンタメ性あふれる娯楽作品。

    親子で猟に行った北海道の山の中で、父親を目の前で羆に食い殺された青年ミキヤが、必死で逃げ、現れた野犬の群れのボスと格闘して後和解し、チームを組んで一緒に羆に立ち向かい勝利するというストーリー。

     

    まず最初に、ここには掲載できませんが、集めたよりすぐりの写真を使って、「チームラウダ(小説にでてくる犬の群れ)」を皆さんに紹介しました。

    それぞれの、犬種の特徴や、小説の中の設定を詳しく解説。

    それから、具体的なイメージが定着したところで、みなさんの感想を聞きました。

    今回は、終始和気藹々と盛り上がって、てんでに好き放題に発言したので、ここでは少し省いたりして、まとめてあります。

     

    Njさん

    普段読む文章とは違う感じはしたけど、どんどん読み進めることができた。

    映画にしてもいいなあと思った。

    犬と人間が仲良くなっちゃうってことは、もちろん普段の生活ではあるだろうけど、野犬とというのはどうなんだろうなあと思いながら読んだ。面白いです。

     

    Kさん

    いっきにこれまでの読書会の内容から娯楽にふってくれてる感じがして、読みやすくて良かったです。このくらいアクションがある方が、個人的には好みです。

    野生動物が・・・今回は主人公とワンコが和解したけれども、これはワンコだから良かったと思って、猿と和解できるビジョンって見えないじゃないですか。

    だからやはり、犬と人間の関係性みたいなのが、遺伝子レベルでマッチできる感じがして、面白かったです。

    この前、バイクで山を走っていたら、猿が並走してきてけっこう怖かったです。

    前に体の大きなチンパンジーの怖い話を聞いて、チンパンジーのブルーノ、車が事故ったのを見て群れで襲ってきたっていう話、それで、このバイクが急にエンストしたらと思ったら怖かったです。

    だから、野生動物って、基本は怖いですよね。

    この主人公のいざとなった時の度胸の据わり方がすごかったですね。実際こんな環境になったら、肝すわらせるしかないんですかね、って感じがしますけど。

    普通に山から脱出しても、もとの生活に戻れない気がしますよね。

    ま、犬は飼うやろうな、と思いますね。

    そんな感じで面白かったです。

     

    Ha
    さん

    読んだけど、頭にちゃんと入っているのか、なんせけっこう血がでるので、そこのところは飛ばしたけど。

    ほんと、エンタメだなあと思って読んで、豚が赤ちゃん食べてその豚を食べるとか、お父さんが熊に食べられてその肝臓を食べるとか、食べて乗り越えるというその発想が、原始的なんかなあって思いつつ。いきなり主人公が強くなるので、すごいと思って読みました。

    最後は本当にこの人どうなるんやろうということと、鉄砲は置きっぱなしでいいのかということが、すごい気になりました。人が入る場所なのに、鉄砲置いたまんまで大丈夫か!?

    それぞれ皆に背景があるので、誰も悪くないみたいな感じがちょっとしますよね?皆の背景が書いてあるから。

    熊が悪い訳でもないし、みたいな。

     

     

    Sa
    さん

    ザ、エンタメ、でしたね。自らは絶対選ばないだろうなという作品なので、読んで良かった。

    やっぱり、(このお父さんの態度とかを読んで)猟とかを趣味でやるのはあんまり良くないなと思いました。

    昔、貸別荘みたいなところに泊まりに行った時に、野生の鹿がでてきたことがあって、鹿ってたぶん何にもしてこないのかもしれないけど、大きくてすんごい怖くて、みんなで逃げた。やっぱり野生は怖いなあって。

    最近は熊もいっぱいでてくるようになって、怖いですね。

     

    Hさん

    やっぱりエンタメだったんだけど、悲しいかな、といったら変だけど、どんどん読んで、いつもぎりぎりに読み終わるのに、筋書きがどうなるのかなと思って、3日くらい前に読み終わりました。

    読む前に文庫本のカバーに作者の簡単な紹介があるんだけど、異色の経歴というか、「ニュージーランドで緬羊の飼育技術を学んで、自宅で酪農従業員をしつつ、緬羊を飼育」しながらこんな作品を書いているんだなと思ってずっと読んで、確かにこの主人公のキミヤってどうなるのかなあっていう感じ。自分の日常からもかけ離れた話だったんで、面白く最後まで読んで・・・。

    熊がでてくるんだけど、熊の怖さをもうちょっと書いて欲しかった!熊が全然怖くなくて、ずいぶん前に「熊谷達也」の「熊と熊撃ちの猟師の話」の本を23冊読んだ時は、熊が怖くって、しばらくはその恐怖を思い返すようような経験があったから、路線も違うけれど、身の毛もよだつような熊の怖さまではなかったな。意外と怖くはなかったな、と。獣の怖さはなくて、あら~?みたいな。

    でも、この主人公がどんな感じになっていくのかなと、楽しく読みました。

     

    Nam(私です)

    たぶん、熊のこともっとっていうんだったら、同じ人の「ともぐい」っていう直木賞とった作品が、まさに「熊と猟師」の話、熊文学。

    (ここで言い間違えたんですが、「肉弾」(2017年)は「ともぐい」(2023年)の前に書かれたものです)

    この河崎秋子さんって、私も知らなかったんだけど、うちが北海道で酪農をやってる一家で、熊の害っていうのは、身をもって知っている・・・そういう人なんだよ。

    だから、北海道の開拓者とか入植者っていうのは、常に熊との闘い、身の危険が常に隣り合わせにある、熊が牛を襲ってきたり、貯蔵した穀物を盗まれたり、そういう中で必死にやってきた・・・。そういう人たちの子孫というか、そういう係累にいる人なんだよね、この作者は。

    だから、バックグラウンドに「北海道と熊」っていうのがある人。

    そして、確かにこの話の中では、熊っていうのはそんなに集中して表現されてないと思う。もともと熊の怖さとか生態とかを知っている人なら多少は汲めるけど、そうでなかったら伝わりにくい表現にはなってると思う。

    で、これで一番何が面白いかっていうと、もちろんこれにはエンタメながら色んなテーマが入っているんだけど、やっぱり一番面白いのは「豚」じゃない?

    豚が赤ん坊を食った、血だまりがあって、糞をしてて、でもみんな飢えているんだよね、イナゴに作物食い荒らされて、食べ物が取れなくて、入植者が全員飢えてるんだよ。その中で、赤ん坊が豚に食べられて、「さあ、この村ではこの豚をどうすんだ?食べないのか?」って思わなかった?

    まずここが一番の山場!

    夜中に若夫婦がすごい形相で豚の肉持ってやってくる。「お前ら食えよ、食ってこそのうちの子供の供養なんだ」という目をして豚肉渡してさ。

    そして、男はちょっと腰が引けてるんだけど、嫁さんがさ「いいじゃない、調理しないと腐っちゃうんだから」って、とっておきの大根だの芋だの入れて、油だの砂糖だのを入れて煮て、子供たちはまわりでわーいわーいと喜んで、犬は美味しそうな匂いがするから遠吠えしてるんだよね。

    (描写が美味しそうで、だからこそ不気味で、と皆が)そうなの!

    で、ここでひとつ、これが昔の入植者の生き残りみたいなお爺さんが「自分たちの昔にこういう話しがあった」と、そして、「姥捨て山の話もある」と。

    それだけ過酷な状況だから、食い詰めちゃったら年寄りは自分で死ににいくんだ、と。山に。

    そして、そういう話しをした後に、やっぱり熊倒したら自分のお父さん食べて胃袋の中にはその残骸が入ってる熊を食べるじゃん、この男の子は。

    「食べさせる」んだよ、この作者は。

    で、「これでかたき討ちだ」と、食べずにはいられない状況にこの主人公を置いて、こんなやわやわな主人公が、血がでるような内臓を切って食べるという。

    この作家は、そこが書きたいんじゃないのと思った。

    Haさんじゃないけれども、「生き物を殺してその命を食べるというのがどういう感覚のものなのか」っていうことを書きたかったんじゃないのかなっていう感じだけどね。

    結局はみんな「食って食われて」の関係性だから、その「食って」の中に自分の身内がいるかもしれない、村の誰かがいるかもしれない、だけど、「お互い食って食われてでしょ?自然界ってそうでしょ?食って食われてでしょ?」って書いてあるのかなあと思って、そこが一番面白かったよね、私は。
    豚のシーンが。「やっぱり食べるよなあ」って。

     

    Kさん

    最後の解説の部分に書いてあるんですけど、これ読んでると「野生動物と人間が対等な状態になる」のが描かれている訳なんで、ほんとに「食って食われて」というか、「勝ったものは食べる」っていう世界の話だったので。

     

    Nam

    私はまだ読んでないんだけど、直木賞をとった作品も、題名が「ともぐい」なんだよね。これは、「熊と猟師の話」なんだけど。

     

    Hさん

    そしてまた、人間であるキミヤが、そこで自分の居場所を見つけられたって言うのが、日常の大学生活の延長じゃなくて、追いこまれたれた自然の中で初めて生きることが出来た・・・みたいなね。

    色んなテーマというか、要素が入ってるなあ、って。

     

    Nam

    若くして、親との軋轢のなかにいる人だったら、そこを中心に読むかもしれないしね。通過儀礼みたいなね、大人になる通過儀礼、だから「父親殺し」だよね?「父親ごろし」で「通過儀礼」で「大人になる」みたいなテーマも入ってるよね。

    しっかし、この父親チャラいよね、終始私をいらだたせてくれてさ。

     

    Hさん
    でも、この父親は息子を狩りにつれていくことで、この息子が生きる力を復活させたんで、結局は父親が救ったともいえるのかなあ・・・と。

     

    ※ここから皆さんとわあわあと楽しく笑いながら、父親のダメっぷりとかで盛り上がる。

     

    Nam

    もうこれさあ、色んなものぶっこんであって、さっきKさんも言ってたけど、やっぱりこれは「犬」、犬好きの話だよね?犬好きの為の。

    犬っていうものに全く思入れのない人間だったら、この最後にキミヤがラウダ達と引き裂かれて泣き叫ぶ感覚とか、たぶん全然わからないよね。野犬になってたラウダと交流する時のさ、心強いような感覚とか、傍にやってきたラウダに感じる、ああいうのはやっぱり犬好きなんだろうな、この作者は。

    とかさあ、意外とチワワの習性を良く知っているとかさ。

     

    ※ここから、あれやこれやと詳しく犬談義。勇敢なチワワ可愛い。狼犬ラウダ尊い。白黒カッコイイ。フォックステリア哀れ。犬の習性を正しく理解してきちんと対応できない人間の大馬鹿野郎。

     
    Nam

    これはさ、心に傷を持った犬たちが集まって、群れを作って、リーダーを持って、お互いに役割を持って、みんなで暮らしているという、立派な犬たち。

     

    Kさん

    そう、捨てられたっていう感じであっても、そんなに不幸にはなってないような感じもするっていうのが・・・。自分の群れを見つけられて、身勝手な人間から離れて。

     

    Hさん

    この主人公が急に勇敢になるんだけど、こんな風になるもんかねえ?ちょっと急すぎるかなとか思って。

     

    Kさん

    ほんとに死ぬような目にあって、へたれをリセットしたら、できるんですかねえ。

     

    Nam

    なんか分かんないけど、陸上部だったじゃん。それも長距離走だよね。それが意外と効いてるんじゃない?忍耐強さとか。

     

    Saさん

    キミヤもちょっと変わった子というか、マラソンのところの描写では、強い執着があるとか。

     

    ※キミヤが閉じこもるようになった原因の、負けた試合の時のチームメイトの態度が酷いという話とか、キミヤも事故にあっていたことを申告すべきだったとか、感想色々。

     

    Hさん

    色々なスポーツがある中で、「走る」っていうのは確かに動物にもできる、例えばこれがテニスとかバスケットとかサッカーとかだったら動物にはできない、唯一じゃないにしても動物と対等にできるたぐいのものだったかなとは思う。

     

    aさん

    しかも、駅伝でチームなんだよ。

     

    Nam

    そうそう、チームなの。そこ重要だよね、チームってとこがね。

    まあ、もちろん考えて色々設定はしてるんだろうから。

    ま、結局は「丸腰」ってことだろうから。

    あのこんなちっちゃいナイフしか持ってなくて、で、歯で噛みついてなんとかしようって(笑)

     

    Haさん

    この人も「野生にかえった」っていうね。

     

    Njさん

    噛みつくの意外だったよね。

     

    Nam

    人間って、爪なんて弱くて土も掘れないような爪じゃない?
    結局銃は失ってしまって、こんなちっちゃなナイフしかなくて、じゃあ何で戦うのか?ってなったらもう「歯」くらいしかないんだよね。

     

    Saさん

    だって、熊倒したのなんて、偶然だもんね。

     

    ※熊を倒したシーンのありえなさの話とか、参加者が山登りで熊にあったことはないがイノシシはあるとかいう話しとか、1970年くらいに福岡大学のワンゲル部が日高山脈でヒグマに襲われて死亡した事件の話とか、この小説にはあんまり熊がでてこないという話しとか、やっぱり意図的に犬の話が重点的に書かれたんだろうという話しとか。

    エキノコックスの話とか。

    熊の肉を食べたことあるのか、満漢全席の「熊の手のひらの料理」の話とか、他のジビエの話とか。

    ツキノワグマの子供を抱っこした時に感じた色々なことから、ヒグマの厚くて固い皮にはナイフが歯が立たないんじゃないかという話とか、銃も下手に頭に当たったら跳ね返すんじゃないかという話しとか。

    山に住んでいる熊と、町に餌をあさりにくる熊との生態や体格の違いとかの話とか。

    雪国に住む人間は、風土からくる性格の違いがあるのかという話しとか。

     

    Nam

    本に話をもどすけど、このラストがちょっと甘いみたいないいシーンで終わるよね。
    ラウダが、救助のヘリが来たから逃げているんだけど、キミヤが「ぺっ」って吐いた折れた歯をさ、そっと咥えてさ・・・。

    「あの非力な人間が熊に噛みついた時に折れた歯だ」とか言って、「だけど、自分を屈服させた歯だ」と。自分に噛みついてね?首にね?

    「あの人間の犬歯だ」って、そっと咥えてさ、大事なものを置く場所に一緒に置くよね?

    ちょっと神々しいようなラストだよね。

    つまり、「仲間」?

    自分の仲間はもう何匹も死んだんだけど、このキミヤとラウダの関係性?ラウダがキミヤをどう認めていたか、っていうね。

    仲間であり、自分を屈服させた相手であり、だけど非力な人間で熊に立ち向かっていった人間。一緒に戦った相手って感じで、そんなに執着する訳じゃないんだけど、そっと歯を咥えて遺物を置くところに置く。

    「遺物化されてる」?「聖なる遺物」みたいにされちゃうの。

    ちょっと美しいシーン。

     

    Hさん

    「犬歯」っていうのをうまく使ったなあって。

     

    みんな

    犬だけに、「犬の歯」だもんね(笑)

     

    Nam

    キミヤはラウダと引き離されて、わーわー取り乱してるんだけど、ラウダの方はいたく当たり前のようにそれを受け入れてさ・・・またここで群れを作って暮らしていく。

    本来はさ、一対一で対するべき相手じゃん?熊なんてさ?

    それで、人間は何も戦うものを持ってないから、度胸と・・・勇気と、銃の腕・・・。
    ほんとに腹がすわったような「命がけの度胸」を持って、一対一で立ち向かう・・・それでやっと「互角かどうか?」くらいの相手。

    それを、銃も無く、何も無く、こんなちっちゃなナイフしか持ってなく、戦ったこともない男が・・・。

    だけど、「犬とチームを組んで戦う」っていう話・・・だよね。

    あの・・・娯楽小説(笑)

    ものすごく素晴らしい作品ではないのかもしれないけれども、楽しみ方はあるよね?

     

    みんな

    面白かった。

    他の本よりは、どんどん読めちゃう(笑)

     

    ※先が気になって夜中に読んだ話とか、写真集めて「チームラウダ」をビジュアル化して応援した話とか、キミヤのビジュアルの話とか。

     

    Hさん

    熊と戦う時に、長距離のスタートの構えをしたのは、いい感じ。

     

    Nam

    あれが、彼の「闘争のポーズ」なんだろうね、キミヤの戦いの場は長距離だったからね・・・ちょっと変だけど(笑)

     

    Saさん

    でも、キミヤにとっては、マラソンってお母さんもやってたってところで、やっぱり大事なものだったんだろうね。きっとね。

     

    Hさん

    もし地上に戻ったら、また長距離はやるかもね。

     

    ※ここからキミヤの家庭環境の話とか、父親の三番目の妻に誘惑された話とか。

    その時に父親が妻を殴って自分のことは殴らなかったことからくる鬱屈の話とか。

     

    Haさん

    このラウダが名前を呼ばれた時に、反応するの、良くなかったですか?
    (首輪に書いてあった名前をキミヤが読み上げる)その時に、まわりは犬同士だから知らないけど、キミヤは字が読めるから「ラウダ」って読み上げた時に、「ぴっ」って反応するところが、すごく良かった。

     

    みんな

    そうそう。

     

    Hさん

    人間に飼われていた時のことを、忘れてはいないというか。

     

    Haさん

    だから、あれでちょっと反応するのが・・・。

    あれでちょっと、(キミヤが)優位に立てたかなあ?って感じもするし。

     

    Nam

    ラウダに最初つき従っていたピレネー犬がいるじゃん、白い。
    「名を欠いたもの」って書いてあって、名前を呼ぶところが●でつぶしてるんだよね、少年の名前は◯でつぶしてあって。
    読んでると、そこだけ音声がミュートになるみたいな、不思議な感じで読んだ。書いても文脈的には通じるのに、なんでだろうと。

    彼は名前があって、人に飼われている時はその名前で呼ばれていて、記憶もあるはずなんだけど、読者にはその名前は明かされないんだよね。

    ラウダが心身ともに傷ついてた時に、寄り添って助けてくれて、死んでしまうんだけど。遺物を残して。

    なんというか、森の神様みたいな。

     

    ※ここからは、今回の作品に「熊要素」が少なかったので、思い切り「熊」に特化した本の紹介をしました。

    そして、見ていただけるページは見ていただいて、熊の生態、熊の恐ろしさがみなさんに染みわたるように具体的な話もして、そして、そんな熊を猟師が撃つというのがどういうことなのかという話もさせていただきました。

    文末に、本の紹介だけざっと掲載しておきます。

     

     

    ↓◆ここからは私の個人的な感想です。

     

    子供の頃からずっと、「一番嫌な死に方は、生きながらにして獣に喰われること」だと考えてきた。

    だから、逆にそれが現実にはどういうものなのかに興味があって、色々な映像や動画を見たり、文章やマンガを読んでしまう。

     

    キミヤの父親がヒグマに喰われるシーンには、正直がっかりした。

    その後の戦闘シーンも、皆さんも言っていたように、「もっと熊を!」と不満を叫びたくなるほど肩透かしだった。

     

    前述しているように、一番印象に残ったのは、昔の入植者の話で、豚が赤ん坊を食べ、その豚を村人がみんなで食べるシーン。
    そして、そのエピソードはキミヤが父親を食い殺したヒグマを倒し、生の肝臓を切り取って共闘した犬達と分けて食べるシーンに繋がっていく。

     

    現代の人間は、自分の手で野生の生き物を捕まえて殺して食べることはほぼ行わない。

    食の観点でいうならば、人間に飼われている生き物は別として、地球上で唯一の不自然な存在、それが人間だといえるだろう。

    不自然な人間は自分たちもまた自然の中に組み込まれた存在だということを忘れ、思い上がり、自分たちの損得で調和の取れている自然を壊すことを平気で行ってはばからない。

     

    この小説の中に書かれていることは事実が多い。

    入植者が、畜産の被害を恐れてエゾ狼を毒薬で根絶やしにした。結果、異常にエゾシカが繁殖し、自然のバランスが崩れて自分たちの生活に影響を与えるようになってしまう。そしたら、ある男が今度はアメリカから狼を輸入しようと思いつく。しかし、色々な反対から計画は頓挫する。ここまでは事実だ。

     

    小説では、その後、計画した男は、狼への夢をあきらめきれず、個人的にあこがれの狼犬を飼うことにするが、無知から独特の気性の大型犬を飼い切れず、虐待して家から追い出す。

    それが、ラウダであった。
    名の無いピレネー犬に助けられて生き延びたラウダは、人間に傷つけられた元飼い犬達と、群れを作って暮らすようになる。

     

    どこから読んでも、人間が愚か過ぎてどうしようもない。

     

    この小説では、不自然な存在の一員であった人間のキミヤを、武器もなく山の中のサバイバルな状況に放り込んで、彼の中の野生を開花させる。

    否応も無く、野生化するしかなかった、心に傷を持つ犬たちとチームを組ませる。

    そして、日本の自然界の中で敵にすると最も恐ろしい生き物、ヒグマを倒す。

     

    ここで誤解してはいけないのは、元飼い犬達はそもそも野生動物ではないということだ。長い年月をかけて、人間が品種改良をしてきたその体も、精神も、野生での暮らしには適応していない。

    彼らの今の生き方が、この上もなく過酷なものであるのは、想像に難くない。

    それでも、ラウダは、仲間は、自分の生きる場所で懸命に生きている。

    だからこれは「自然(ヒグマ)」対「非自然(キミヤ)」プラス「元非自然(犬たち)」の構図ともいえるだろう。

     

    最初に死んだ犬、ピレネーは、体が大きいから、声が大きいからと人間に捨てられ、それでもあきらめて運命を受け入れ、しかし、掘り当てた人間の大腿骨の匂いに懐かしさを覚えて食べるのをやめ、大切なものとして大事にとっておく。

    そして、それをラウダが引き継ぎ、遺物として保管する。

    最後に、キミヤが熊に噛みついて折れた犬歯を、ラウダは匂いで見つけ、そっと咥えてピレネーの残した遺物と一緒にする。

    戦士が戦死を称えるように、一緒に戦ったキミヤのことを思い出しながら。

     

    捨てられても、傷つけられても、結局は人間を忘れられないラウダ達が悲しい。

     

    人と、犬は、かほどに結びつきが深いのだ。

    少なくとも数万年と言われる人と犬との共存の歴史は、犬に遺伝子レベルで人間への愛情や信頼を植え付けた。

    そんな動物は他にはいない。

     

    人間が、人間として大切なものを失なわない為に、犬が時に無条件で寄せてくれる心を裏切りたくはない。

    そして、犬は現代の人間と自然を仲立ちする存在になる得るのではないだろうか。

    犬を知り、その知識を拡大していくことで、あらゆる人間以外の生き物を知ろう、全ての自然を知ろうとする態度を持ち続ければ、ひるがえって己たち人間のことも知ることもできる。

     

    この作者がそこまで明確に意図していたかは分からないが、間違いないのは、この作者もまた犬好きだということは良く伝わって来た。

     

    それから、せっかくなので熊のことももっと知ろう。

    都会に出てきた危険な熊を撃ったら、「かわいそう」と批判が沸き起こる現状はいびつだ。

    「食べ物がないから人間のものを狙うのだ。どんぐりを山に撒こう」とかも、適切な対応とは思えない。

    もちろん、エゾ狼のように、全滅させるのはもってのほかだ。

    人と熊の一騎打ちだと、「熊撃ち」にロマンを求めすぎるのもまた違う気がする。

    人間が変化してきたように、人間の存在のせいで熊もまた変化している。

    複雑な問題を多く内包しているが、これもまた興味深い。

     

     

    ※追記

    ちなみに、病気がちな母親に食べさせようと庭に植えた里芋を、イノシシに全部荒らされた時は、本気で殺ってやろうと思った。

    もちろん、里芋の代わりにイノシシを食べるつもりだった。

    私の中にはまだ野生の血が流れているらしい。

    銃は無いし、罠をかけるのも法律違反になるから、手作りの槍などの武器で殺ろうとした私は、母に必死にとめられた。

    母の顔をたてて、諦めざるを得なかったことが、今でも少し悔しい。

    ***************************************************************
    ■小説中に熊成分が薄かったので、改めて熊関係の本の紹介

    ◇三毛別ヒグマ事件

    苫前町は、明治20年代の後半になると原野の開拓が始まりました。未開の原野への入植は続きましたが、掘っ建て小屋に住み、祖末な衣類を身につけ空腹に耐えながら原始林に挑み、マサカリで伐木しひとくわひとくわ開墾したのでした。

    大正初期、町内三毛別の通称六線沢(現・三渓)で貧しい生活に耐えながら、原野を切り開いて痩せた土地に耕作をしていた15戸の家族にその不運は起きたのでした。

    大正4年(1915年)129日、10日の両日、380キログラムの巨大な羆が現れたのです。冬眠を逸した「穴持たず」と呼ばれるこの羆は、空腹にまかせて次々と人家を襲い、臨月の女性と子供を喰い殺したのでした。

    その夜、この部落で犠牲者を弔うため人々が集まり通夜が執り行われていた民家に、再びこの羆が現れ、通夜は一転して悲鳴と怒号の渦と化しました。人々は逃げて奇跡的に助かりましたが、食欲が満たされず益々興奮した羆は、再び近くの人家を襲い、9人の内5人を喰い殺したのでした。

    この事件の犠牲者は10人の婦女子が殺傷(7人が殺され、3人が重傷)される、獣害史上最大の惨劇となったのです。

    恐怖のどん底に落とされたこの部落に、羆撃ち名人として名高い老マタギ山本兵吉が鬼鹿から駆けつけ、1214日にこの羆を射殺したのでした。その時、突然空に一面の暗雲がたちこめ激しい吹雪となり、木々が次々となぎ倒されました。

    この天候の変わり様に人々は「クマ嵐だ!クマを仕留めた後には強い風が吹き荒れるぞ!」と叫んだのでした。

    「三毛別ヒグマ事件を題材にしたもの」


    ◆木村盛武

    『獣害史最大の惨劇苫前羆事件』旭川営林局1964

    『慟哭の谷 The Devil’s Valley1994年、共同文化社

    『慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』2015年、文藝春秋
    慟哭小

    事件から46年を経た昭和36年(1961年)、事件地を管内に持つ古丹別営林署に赴任して来た林務官・木村盛武氏(大正9年生まれ)が、事件の真相究明に乗り出す。

    祖父も父も林務官という家庭に生まれ、惨劇のあらましを45歳頃に聞かされ、ショックを受けた。

     幸運なことに、事件後46年も経過していたにも拘らず、奇跡の生存者が4名、遺族や討伐隊として活躍された方、幼少ながら事件を見聞きした人等、30数人の生き証人がいた。木村氏はそれらの人々を片っ端から尋ね、徹底した聞き取り調査を行った。

    そして、昭和39年(1964年)にその全容を解明し、「獣害事件最大の惨劇・苫前羆事件」(苫前羆事件は現在「三毛別羆事件」として一般に呼称されている)と題して旭川営林局誌「寒帯林」に発表。

    『慟哭の谷』は、それにいくつかの事件などをプラスしたもの。

    ◆戸川幸夫

    『羆風』小説新潮8月特大号、1965

    ◆矢口高雄

    『羆風(コミック)』戸川幸夫原作、矢口高雄作画

    ・野性伝説(原作:戸川幸夫、1995 – 1998年、月刊ビッグゴールド(小学館))

    収録作「爪王」「羆風」「北へ帰る」「飴色角と三本指」

    羆風小
    戸川幸夫の「羆風」をベースに、戸川幸夫が基にした
    『獣害史最大の惨劇苫前羆事件』の作者木村盛武にダイレクトに電話取材してマンガ化したもの。
    持ち味のややコミカルなマンガ的絵でありながら、身の毛のよだつような執拗な熊の攻撃の描写がリアル。

    ◆吉村昭(1927 – 2006年)

    地道な資料整理、現地調査、関係者のインタビューで、緻密なノンフィクション小説(記録小説)を書き、人物の主観的な感情表現を省く文体に特徴がある。

    『羆嵐』1977年、新潮社のち新潮文庫

    羆嵐小

     事件が余りにも劇的で、それだけに文学の世界の中で咀嚼するのは至難だった。それまで四年ほど取り組んでいた記録小説からの脱皮を考えていた私は、事実を基礎にしたフィクションとしてこの素材をかみくだき、再構築することにつとめた。八カ月ほどして三百五十枚の小説を書き上げたが、こまかい砂粒の中に小石がまじっているように、事実の素材が生のまま残されているのが不満だった。私は、この小石をさらにこまかく砕かねばならぬと考え、一年間放置して客観的に見直す時間を作った上で、さらに一年間を要して初めから書き起こし、ようやく完成させた。私が最も苦しんだ小説の一つであった。

    ・『羆撃ち』1979年、筑摩書房のち筑摩文庫

     羆嵐の取材中に聞き集めたマタギの実体験をまとめたもの

    熊撃ち小

    「その他の熊関係本」

    ◆河崎秋子

    『ともぐい』2023年、新潮社

    ともぐい小
    「肉弾」の後、これで直木賞受賞。
    熊と猟師の話。

    170回直木賞受賞作! 

    己は人間のなりをした何ものか――人と獣の理屈なき命の応酬の果てには

    明治後期の北海道の山で、猟師というより獣そのものの嗅覚で獲物と対峙する男、熊爪。図らずも我が領分を侵した穴持たずの熊、蠱惑的な盲目の少女、ロシアとの戦争に向かってきな臭さを漂わせる時代の変化……すべてが運命を狂わせてゆく。人間、そして獣たちの業と悲哀が心を揺さぶる、河﨑流動物文学の最高到達点!!

    ◆久保俊治

    『羆撃ち』2009年、小学館のち小学館文庫

    熊撃ちフチ小

    ノンフィクション。日本で唯一の羆ハンターと美しき猟犬との熱い絆の物語。著者は北海道で羆のみを追う日本で唯一のハンター。相棒の北海道犬「フチ」との出会いから、リアリティに充ち満ちた狩猟、アメリカ留学、帰国、そして再びの猟生活を類い希なる表現力で描く。

    ◆野田サトル

    『ゴールデンカムイ』2015年~2022年集英社ヤングジャンプコミックス全31

    カムイ小

    明治末期、日露戦争終結直後の北海道・樺太を舞台とした、金塊をめぐるバトル漫画。加えて、戊辰戦争・日露戦争・ロシア革命などが関わる歴史ロマン要素のほか、北海道・樺太独自の動植物・狩猟を描くサバイバル要素、各地の料理を堪能するグルメ要素、アイヌなどの民俗文化の紹介要素も併せ持つ。さらに、ギャグ要素や映画・アニメなどのオマージュ、ホラー要素も盛り込まれているため、「冒険・歴史・文化・狩猟グルメ・ホラー・GAG&LOVE!和風闇鍋ウエスタン!!」というキャッチコピーがつけられている。

    取材に協力してくれたアイヌの人々から「可哀想なアイヌではなく、強いアイヌ」を描くことを期待された。

    ◆安島薮太(あじま・やぶた)

    『クマ撃ちの女』2019年より、くらげバンチ(新潮社webマンガサイト)にて連載

    クマ撃ちの女小
    単独猟でヒグマを撃つことに取りつかれた、ちょっとイカレタ女の話。
    事細かい猟のノウハウ、ヒグマに対峙することがどういうことなのか、色々と知ることが出来る面白いマンガ。
    でてくる他のハンターたちも、ひとくせもふたくせもある。

    <文責 ナンブ>

  • 第12回ヒカクテキ読書会「本心」報告後編

    Kさん

    みなさんこれ欲しいですか?300万払って。お母さん役割のやつ。なんだっけ、VFだっけ。

     

    Hさん

    もし、みんなが必要ないっていうんだったら、みなさんある程度幸せな・・・っていうか、母がいなくても大丈夫な人間関係を持ってるっていえるのかな~って。

    私は必要ない・・・かな?

     

    Kさん

    なんかちょっと欲しいかも、って思ったんですけど。これ、一回持ったら捨てられないような気がするんですよ。

     

    Saさん

    なんか逆に悲しくなるような気がして・・・。

     

    Haさん

    未来がなんか無いような感じがちょっとしますよね。

     

    Kさん

    でも逆に、自分のは作って欲しいような気がする。

      

    Nam

    私は欲しいんだよ、欲しいんだけど、でも、こんな稚拙なやつはいらない(笑)

    もっと完成度高くって、それこそ学習能力がもっとあって、受け答えもオウム返しじゃなくて、もっとまるで感情があるかのように思えて、こっちが予測しないとっぴじゃないけど、驚くようなはっとするようなことを返してくる能力がある、そういうのだったら絶対欲しい。

     

    Saさん

    それって、誰か具体的な人で?

     

    Nam

    具体的な人にするか・・・全く、全然関係ないような、実在しないような人物でもかまわない。

     

    Saさん

    なんか私も、全然関係ない人の方が、まだいいような気がする。

     

    Kさん

    単純に、「しゃべる犬」とかでもいい?

    中身はちゃんとしたAIで、ビジュアルだけ犬!

     

    Nam

    それ、すっごいイイじゃん!むしろ(人間型より)もっとイイじゃん!こないだの子狐の写真(ヒカクテキ古典でだした参考資料)みたいなAIだったら・・・。

     

    Kさん

    そうそうそう、あれがもう人間の声でしゃべって、面白いこととか言って、話し相手になってくれて、だったら・・・絶対買いますよね?

     ボケ防止になりそうじゃないですか?誰とも話さないとボケるっていうじゃないですか。

     

    Nam

    あんな可愛い動物としゃべれるなら買う買う!

     

    だからさあ・・・。

    私はね?

    それが動物の形であろうと、人の形であろうと、もしくは形がなくって文字と音声だけのやりとりであろうと、充分関係性が成り立つと思ってる。

    だから、動物だったら、ましてや可愛いよね?(笑)

     

    Kさん

    そうですね(笑)

     

    Nam

    私・・・人との関係性って、そんなにビジュアルが分からなくっても、成り立つかなあ・・・って思ってる。

    だから、読書会の中では、zoomの画面でしか知らない人もいる・・・けれども、もしこれが黒い画面であったとしても、言葉の積み重ねがあって、例えばメールやメッセージで文字のやり取りがあったとしたら、充分に関係性が作れるかなあ・・・っていうのが私の中にある。

    なぜかっていうと、「ネット世代」だから(笑)

    ハンドルネーム、で、顔分からない、そういう中で、人間関係を作って来たネット世代だから。ありじゃない?と思う。

     

    Kさん

    まあ、確かに。

    今って、VRチャットって、あるじゃないですか?こういうゴーグルを私は持ってるんですけど(見せてくれた)・・・。

    これの中で、けっこう自分のアバターでやり取りをするって人もいて、この小説でもあったみたいに、アバターの着せ替えをするっていうのが、お金かかるんすよ。そういうデザイナーとか、専門で作っている人がいて、アバターの着せ替えのパーツを買うんですよね。

    ってなったりもしてくると・・・人間のビジュアルは重要じゃなかったんだ、っていうのは思いますよね。

    仲良い人は、どんな姿をしていても仲良い。

     

    Nam

    だから、充分あると思うんだよね。アバターもありだよね。

    で、ひょっとしたら、アバターは分かりやすい「記号」でしかなくて、人間っていうものに慣れてるどうしだから・・・。

    でも、この本の中では、猫のアバターとかでてくるじゃん。だから、動物でもいいってことだし。

    記号でしかないと思うよ・・・それで充分関係性は出来ていくっていう・・・「時代」。

    そういう感覚は、分からない人には分からないけど。

     

    Kさん

    でももう、今時、色んなところで関係作れるんだから、もう・・・あれですよね、自分の好きな車を買って自己表現するみたいな・・・感じのような気もするし・・・普通に服を着替える感覚で、色んなアバター着替えて自己表現するでもいいし・・・。

    自分らしさを出さないと、埋もれる世界がもう一個増えてるみたいな感じがしますよね。

    ただ、この小説の世界観では、誰が作ったかがブランド化してるみたいな・・・まだそこまでは、私の知る限りは無いですね。

     

    Nam
    でもさあ・・・男も女も関係なく、老いも若いも関係なく、容姿も関係なく、例えば体に欠損があろうと、言葉がしゃべれない、声がでない、耳が聞こえない・・・そんなこと一切関係なく、全員がアバターっていうのも、悪くない。

     

    Kさん

    んー、いいですねえ。「サマーウォーズ」って、そういう世界観でしたもんね。みんながアバターを持って・・・みたいな。

     

    Nam

    だから、ネットで知り合うとさ・・・「実は自分は口がきけないんです」とかさ?「実は自分は下半身不随なんです」とかさ?

    当然いるんだよね・・・でも全然、分からなくて、言葉のやり取りだけでやっていくから、言われなければ当然分からない。

    現実の世界で口がきけなくても、文字のやり取りだったら、「同じ土俵」でやり取りできる。

     

    女だと思ったら、男だったとかね・・・若いと思ったら歳いってたとか・・・、あるよね?

    でもそれも、受け入れられる人であるならば。

     

    Kさん

    まあ、別にね。

    ただ、この小説みたいに、アバターを持っていて、その姿に会うつもりで行ったら・・・っていうのだったら、また違うかもしれないですね。

     

    Nam

    そうだね。失望したり、びっくりしたり、するかもしれない。

     

    Hさん

    ひとつは、あれもあるんじゃないのかなあ・・・距離が生まれるじゃないですか。アバターとか、こういうオンラインだったりすると、リアルじゃない距離感が生まれるから、逆にこれがリアルの読書会だったら、こんな風にどんどん意見がでたりとか、盛り上がらないかなあ・・・っていう気がするんだよね。

    だけど、オンラインだから、みんなどんどん意見が活発にでて、だからアバターっていうのも、距離感が生まれるゆえに、逆に付き合いやすい・・・みたいな。

    たとえば、すごく引っ込み思案な人とか、容姿にものすごくコンプレックスを抱いている人とか、実際いると思うんだけど・・・何故かこのオンラインだと、距離感があるから思っている事をどんどん口にしやすい、っていうのかな?

    例えば大学時代の研究室の授業とかで、こんなに活発に意見交換でてなかったと思うんだよね。もちろん、先生がいないとかいうのもあると思うんだけど、これが同じメンバーでリアルだったらまた、違う雰囲気になるのかも・・・って、ちょっと思わなくもないから・・・距離感っていうのが、いいように作用してる場合っていうのが、確かにあるのかなあって。

     

    Nam

    話しを小説にもどすなら、この中でアバターとして、三好と主人公とイフィーが、ある種の世界の中で楽しんでるっていうのがでてくるよね。

    本当に、全く自分でないものになれる場所として行ってるよね。三好は猫、で、自分では行けないような場所に行って、イフィーは、下半身不随だけど、少なくともそのアバターの世界の中では筋骨隆々な性的な逞しい男として、ちょっとヤバイようなところに足を踏み入れて、それは現実世界では出来ないこと、が出来る世界として、この中では書かれているよね。

    だから、その中で、その人間が例えばイフィーのようなことをしようが、何をしようが、それは咎められることでもなく、全然自由だってこと。

     

    Hさん

    うん・・・例えばね、このオンラインのまあ、読書会になぞらえなくてもいいんだけど、例えばさっき三好とかティリがめんどくさいとか言ってたけど、オンラインだったらあとくされが無いっていうのかなあ・・・。

     

    会って、これだけ話してるけど、いったん退出したら次に会うまで尾を引いたりしないっていうか・・・なんていうのかな。

     zoomだから距離がすごく遠い訳よね?次にzoomで会うまでは、会うことが無い訳じゃない?近くにみんな住んでる訳じゃないし。

    ところがもし、みんな近くに住んでてリアルに会っていたら、誤解しないで聞いて欲しいんだけど、例えばまた人間関係がこう・・・幅が広がるっていうか、2日後くらいに同じスーパーで出くわして話をしたり、読書以外の話もしたり、全然関係ない話も近くに住んでいて会えるくらいの距離感だったら、もっともっと色んな話をすると思うんだけど、このオンラインだったら、いったん退出したら次の読書会まで絶対に会うことがない・・・。

     

    この、独特の距離感が、すごくいい風に作用すると、言いたいことが言える・・・じゃないけど、それは確かにあるかなあ・・・って、思う・・・思いませんか?

     

    Kさん

    いや、分かります。

    ただ、それが良いか悪いか・・・距離感の違いはあるよね?って話ですよね?

    別にどっちが良い距離感っていう話しじゃないですよね?

     

    Hさん

    どっちが良いとか悪いとかって話じゃなくて、距離感が、今までだったら・・・今までの世界だったら得られなかったような距離感を、私たちは獲得してるかな・・・っていうのは思います。

     

    Kさん

    はいはいはい。

    分かります。それは間違いないと思います。

     

    Hさん

    ほんと、不思議なんだけど、読書会でこうやって会っていると、リアルじゃないけどすごく楽しくて、なんか本当に会ったような感じが私はすごくしてて、だから、じゃあ去年みたいな同窓会でね、熊本まで行ってもう会う必要がないような感じがね、もちろん会ってもいいんだけど、会わなくても結構満足してる自分がいるんだな~とか思ったんだよね。

     

    Nam

    それなんだよ、Hさん、リアルを知らなくても関係性が出来上がっていくんだよ。

    で、それがネットであり、昔の人だったらお手紙交換とかそういうこともあったかもしれないけれども、今はもっと情報量の多いネットっていうものがあって、そこで関係性は充分結べるねって話。

     

    Hさん

    ただ、それだけでは・・・なんというかな・・・ダメ。

    良くないなあ・・・とは思うけどね。うん、やっぱり。

     

    Nam

    私は、そんなに良くないとも思わないんだよね。

     

    Hさん

    いくつかあった方が良くない?(笑)

    リアルの人間関係もあった方が・・・鍛われる・・・じゃないけど。

    ごめんね、小説からどんどん離れていってしまったんだけど。

     

    (※ここから読書会についての話なので略します)

     

    Hさん

    私ね、一番最初に読んだ時は、「西日本新聞」に連載されていたのを第一回目から少しずつ読んでいったんだけど、途中からはもう前の晩からすごく楽しみで、眠れないくらい楽しみで、「私って、朔也になったのかもしれない」ってくらい。

    三好さんに振り向いて欲しくって、そればかりを念じながら次の日の新聞を読むのが、わくわくっていうより楽しみっていうか、本当に入り込んで、まあ、一日の量が少なかったのも良かったのかもしれないけど、最終回の時はもう寂しくて、「終わっちゃうのか・・・」って思ったら、毎日の大切な習慣が無くなって、すごく寂しくって・・・。

    だから、読書会はしてるけれども、物語の中に身を置いて浸るっていう、この快感、楽しみっていうのは、やっぱり「あるな~」っていう。

     

    Kさん

    そういう楽しみを知ってるから、社会人になっても読書が続くのかも。

     

    Nam

    あのさ、すっごいくだらないこと言っていい?

    朔也ってさ、すごく汗かくよね?

     

    Hさん

    そこがね、そこが2040年は地球温暖化がこれだけ進んでるんだろうという予測だろうと。

     

    Nam

    もともと汗臭いとか言われてクレームつけられるじゃん?仕事でね?

    でも、その後もアバターとしてあちこち歩いてる時、メロンの時とかもぐっしょぐしょに汗かいたりとかさ・・・。自分の汗の匂いがふっと気になったりとか・・・とにかく、やたらこの人汗かく。

    温暖化っていうのもあるかもしれないけど、この主人公、やったら汗かくよね?

     

    Hさん

    暑いからだと思うし・・・それから時代が進んで、人の体臭とかに敏感になる人が多い・・・自分も含めて。そういうのもあるかと思うんだけど、一番は、真夏じゃなくても10月でも気温が高いとか、そこはあるとは思う。

    それ以外にも汗の理由があると感じる?

     

    Nam

    なんだろうな・・・これだけ「汗をかく目にあわされる人」?

     

    Hさん

    あー、酷使されるような仕事・・・。

    肉体労働で酷使される人ってことで、その通りじゃないかな。

     

    Nam

    リアルアバターそのものは、そんなに汗をかくものとかいうそういうイメージないじゃん?なのに、彼は汗をかかされる・・・大変なお仕事。

    そういう仕事をせざるをえないというか、そういうのをして、安い給料をもらってる。良いこともあるけどさ。

      

    Haさん

    VFのお母さんの方がかせぐかもしれない。

     

    Nam

    だったらさ、うまくお母さん使って、稼ごう・・・って思わないんだよね、この人は。

     

    Hさん

    そこがやっぱりね・・・金儲けの為に作ったんじゃない。

    ただなんか、書いてあったよね、実際のお母さんが旅館でお仕事してる時に、70歳くらいで体力無いから、パワードスーツを着て布団のあげおろしをしている、パワードスーツを着たら少しは楽なんじゃないかといっても、もともとの体力まで変わる訳じゃないからって・・・。

    いくら便利なものが出来ても、人間そのものの体力が変わった訳じゃないっていう・・・。ちょっとだけ、はっとしました。

     

    Nam

    これさ、「母は本当に旅館で働いていたんだろうか」

    ぶちこんでくるよね?(笑)

     

    Kさん

    最後まで分かんなかったっすよね。

     

    Nam

    最後にぶちこんできたよね?とんでもないのを。

    自分の母親はいったい何の仕事をしていたんだろう。

     

    Kさん

    最後まで、「他者性」を示してくるの、こわ~っと思いました。

     

    Nam

    ぶっこんできたよね~?「こわ~!」と思わなかった?

     

    Hさん

    やっぱり、母のことを今まで分かってるつもりで信じ切っていたけど、愛してても、段々分からなくなってきた・・・自由死をきっかけに・・・じゃないけど、知らない部分があったんだって。

     

    Nam

    いや、これちょっとぞっとしたよ。怖い・・・「こんなこと思っちゃうんだ?」って思って。

     

    Kさん

    最後まで濁されて終わったのが、良かったのか悪かったのか。

    働いていた場所が、明かされなくて終わったのは、ある意味「救い」な気もします。

     

    Nam

    調べなかったもんね。少なくともね。三好に聞いてさあ、その旅館がどこか追及したりは、彼はやらないよね。

    自分の母がさ・・・「知れば知るほど謎めいた人間になっていく」。

    たぶんここは、足元がなんかバーンと外れたような・・・気持ちだったよ、彼は。

     

    Hさん

    でも、何でも自分が知ってるって思っていることから、ひとりの人間として見れる・・・ひとりの人間というか、客観的に自分の母親のことが見れるように・・・想像が良いか悪いかは別としても、なっていくっていう・・・ことのひとつ。

     

    Kさん

    まあ・・・そうですね。

    これで、ちょっともう親離れというか、全部を知ってる訳じゃないんだよ、あくまで他人なんだよ感が・・・。

     

    Nam

    全く、「他人感」がでてるんだよね。ここ。

    手出し無用、手出しできない人間?こっからは絶対に自分は手出し出来ない・・・親だけど。

     

    Hさん

    でも、親も人間だから、そのくらいあるんじゃないかな。

    ものすごく大事件じゃなくても。

     

    Kさん

    秘密というか、隠し事というか。

     

    Nam

    愛人関係にあったじゃん?ね?

    そこまではさあ・・・普通だよ。人間なんだから。

    知らないことがあっても、親でもそういう誰かと恋愛関係があっても、そこまでは普通なんだよ。

    ・・・果たして旅館で働いていたのだろうか?(笑)

    これはね、もうホラー!ホラーですよ!

    全くもう母親が異形のものに変わる・・・みたいな。

     

    Kさん

    我々も、他の身内とか友だちからしたら、そう、思われてるかもしれないですからね?

    彼らが知らない自分っていうのはある訳だし。こっちで隠してる気は無くても、思ってた奴とは違うって思われる可能性はある訳じゃないですか。

     

    Hさん

    だから、それこそ人間関係ごとに、まあ、見せる自分っていうのは変わってくる訳だから、子供にね、見せてた部分と、違う男性に見せてた部分は、大きく変わるのはね、当たり前・・・まあ、有りうることかなあっとは。

     

    Nam

    んー、ただ、見せる見せないじゃなくって・・・その・・・「果たして旅館で働いてたことは本当なのか」・・・って、あの、拘るようだけど、そこに来たってことはさ・・・その・・・「全てが虚構だった可能性がある」ってことだから・・・。

    だから、相当ひっくり返ったってことだよ?世界が・・・。

    母親っていうものが、自分に見せてたものが、全く真実が無く、虚構だったのかもしれない・・・。

    と、思ってしまったのが「果たして旅館に務めていたのはホント?」ってとこだからさ・・・。だからさ?・・・怖いじゃん。自分の母だと思っていたのがさ。

     

    Hさん

    そうかなあ?・・・自分が思ってなかったようなところで働いてた、っていう風に想像してもまあ、亡くなった後なら・・・自然かな。自然かなって言ったら変だけど。

     

    Nam

    んー・・・私は「単なる職業の問題じゃない」と思って読んでるから、ここ。

    だから、旅館で働いていたんじゃなくて、靴屋で働いてたの、デパートで働いてたの、どこで働いてたの?っていう話じゃないと思ってるから。

    「全てが崩れた瞬間」だと思うよ?「母親との関係」の。

    まあ、少なくともここで関係性が一回ガンっと全部崩れた。

    で、まあ、そこで「親離れ」っていうことなんじゃないの?

     

    Hさん

    んー・・・。

     

    Nam

    ここまで崩さなくても!(笑)

    って思ったんだけど。

    徹底的にやってきたな、平野さん!・・・ぐらいの感じ(笑)

     

    Hさん

    ん・・・ただ、確かに・・・実際のお母さんはもう亡くなっていて、この小説の中には一度も出てこないから、イメージがあるようで掴みにくいかもね。VFの母は出てくるけれども、実際のお母さんはほとんど出てこないよね・・・もう亡くなった後の話だから。イメージがこう、なんとなく湧くような湧かないような、不思議な・・・。

     

    Nam

    だから、「登場人物が語ったお母さん」しかいないんだよ。

    主人公が思ったお母さん、三好が語ったお母さん、小説家の藤原?が語ったお母さん、VFのとこの人(野崎)が「お母さんはこういう人だったんですね」ってお母さんについて言った言葉とか、そういうものしか無いんだよ。

     

    でも、「それこそが」じゃないの?

    「人の印象の積み重ねしかない」っていう。

     

    Hさん

    そういうことだよね、それぞれの記憶の中のお母さん。

     

    Nam

    それは、VFだからじゃなくて、人間って、そうじゃないの?

     

    Hさん

    ま、亡くなればね。

     

    Nam

    亡くならなくても、そうじゃないの?

     

    Hさん

    まあ、でも、目の前に存在をいるっていうのと、いなくて記憶から取り出すっていうのは違うっていう気はするけど。

     

    Nam

    ん・・・私は、全部がそういうものだと思ってるから。

     

    Hさん

    んー、でも、実在して目の前にいるのと、記憶の中だけに存在するっていうとなんか、記憶だとどんどん変質していく可能性があるじゃない?こう、あるかなと思うんだよね、時間と共に、でも、実在してたら、やっぱりその実在があるから、まあ、ひとつの物として、って言われたらそれまでだけど、記憶の中もちょっと違うかなあ、とは思うけど。

     

    Nam

    んー?どうかな?

    なんか、でも、ある段階のものっていうのは、変わんないんじゃない?

    で・・・それが、実在してたり生きてれば、そこにプラスされていく「情報」っていうのはあるけれども、それが有るか無いかだけの話で・・・。

     

    Hさん

    確かに、10年前の母って言われたら、それは記憶の中の母でしかない訳よね。

     

    Nam

    これは(VFや、小説の中に出てくる母親は)何年か前の母だもんね。

     

    Hさん

    といったところで、今回本に添った話からだいぶん逸脱してしまったけれども、もう9時半なので、みなさん何か「本に関して」言い足りないことはありませんか?

     

    Nam

    もう、ちょっと・・・読み込んでなくてごめんって感じ。ちょっとさ、色んな情報がありすぎて、頭の中がばらけちゃった感じ。

     

    Hさん

    確かにね、大小様々なテーマが沢山盛り込んであるから。

     

    Nam

    一回でやるの難しいよね。

    なんか「死生観」とかも、もっと踏み込んでもいいかもしれないし。

    なんか、面白かったけどね。

     

    Hさん

    「もう充分」とかね。

     

    Haさん

    「本心」ってなんだったんだろ?

    ね、お母さんの本心は。

     

    Nam

    分かんないってこと?結局(笑)

     

    Haさん

    お母さん、勤め先が分かんないのと同じで、結局・・・(笑)

     

    Hさん

    「他者性」ってところに。

     

    Nam

    「他者性」とか出しちゃったら、「本心なんか分かんない」で終わっちゃうじゃん!

     

    Kさん

    まあ、そう、結局本心は分かんないんだよ?って話ですかね?

     

    Nam

    「本人が語らない限り分かんない」ってことだよね。

     

    Kさん

    そうですね。本人も正しいことを言ってるかは分かんないですし。

     

    Hさん

    また、時間と共に変わっていく・・・っていうのもあるだろうし。

    じゃあ、一旦は終了で。他になければ。

     

    Nam

    これ、どっかでもっかいやってもいいくらいややこしかったね。

     

    Hさん

    何かテーマをはっきり決めちゃえば良かったもしれないね?

      

     

    ここからは私の個人的感想です。

     

    私が好きだと語っている「スズメ」ですが、私はこの小説のスズメは、メタファーだと思っています。

     

    一羽だったスズメがティリが来た時に飛び立ち、ティリと話しているうちに二羽になって戻ってきた。もちろん、同じスズメとは限らないし、朔也にスズメの見分けはつかない。

    たぶんですが、飛び立ったのは朔也で、戻って来たのは、朔也とティリ、もしくは、この世の全ての今新しく関係を始めようとしている二人なのだろうと思います。

     

    そして、その二羽のスズメに朔也はこう思います。

    「友だちを連れて戻ってきたのなら、僕は歓迎したかった。しかし、新しい二羽が飛んで来たのだとしても、僕はやはり心から、歓迎したい気持ちだった」と。

     

    愛していた母親の死にとらわれることから自由になり、自分で自分を、そして自分の外の世界に目を向けて全ての同胞を祝福するこのラストは、このうえもない幸福なラストといえるのではないでしょうか。

     

    このシーンに関連して更にいえば、Haさんが、朔也とティリのオーダーしたお皿が入れ違って置かれたのには、どんな意味があるのだろうとおっしゃいました。

    私は「二人の距離が縮まる、ちょっとした微笑ましいアクシデント」というようなことを答えましたが、もう少しそこを説明してみようかと思います。

     

    お皿が入れ替わるということはつまり、単なる物質としての皿の問題ではなく「あなたのものが私のものに」「私のものがあなたのものに」なったということ。

    これもメタファーとして作者が意図的に書かれているのだと思います。

     

    文中に長々と語られる藤原さんの小説の意味についてですが、すでにSaさんが素晴らしい回答をされています。

    「高みから見る者と見られる者、笑う者と笑われる者、騙す者と騙される者の格差の象徴」ではないだろうかと。

     

    私はこれにもう一つの私なりの答えをプラスしてみます。

     

    この藤原の小説が表しているのは、「他人の本心は分からない。ましてや、既に死んでいる相手なら知りようもない」ということなのではないでしょうか。

     

    騙し、騙されて、何が果たして真実だったのか。

    男はそれがドッキリだと知っていたのか、それとも知らなかったのか、女の子には分からない。

    朔也の母親も、この小説内の男も、いきなりの事故で死を迎える。

    「本心」を明かさないままに。

     

    母親と朔也の、大きな話の枠組みの中に、同じ構造の小さな話を入れ込んであって、その小説を読んだ朔也が、実は自分は最後まで母親に騙されていたんじゃないかと「疑う目」、つまり「客観性」を獲得する。

     

    「母親を他者として見始める」、そのキッカケに、作者の平野さんは使っているんじゃないのかと思いました。

     

     ところで、私が読んで思うには(2冊だけですが)、平野さんの小説は、一見色んな情報が詰め込まれていて、複雑で難解そうに見えるのですが、実は平野さんという人は「とても親切な作者」で、文中に沢山の種明かしをしているような気がします。

    「分かるかな?こう書いたら分かるかな?」と、読者に寄り添って伝えようとする気持ちの強い人なのではないかと、そう感じます。

     

    後、私が最初に「思ったのと違った」と繰り返している意味ですが、それはSF」ではなかったからです。

    「2040年の近未来、息子がバーチャルフィギュアで死んだ母親を蘇らせる」

    という設定から、SFを期待してしまったのですが、そこは違いました。

     

     

    そもそもこの小説は、朔也の成長物語の側面が確かにあって、どうしようもない喪失感と悲しみの中にいる人、社会の中でいやおうなく置かれた辛い状況から抜け出そうにも抜け出せない人たちに、希望を与えるものでもあると思います。

     

    ただ、身も蓋もないというか、あまりに真実なのですが、「お金があれば可能性が広がる」ということを言ってもいるなあ・・・と。

     

    それから、この小説の中に私が感じるのは、平野さんの「死生観」です。

    常々個人的に思っていることですが、死後自分がどうなることに慰めを見出すのかは、人それぞれです。

     

    天国に行くことに慰めを見出す人。

    死んだら「無」になってしまうことに慰めを見出す人。

    死んだら「原子」や「分子」に分解されて、地球上に存在し続け、漂い、そのうちに一部は結合して別のものに変化していくことに慰めを見出す人。

     

    他にも様々なものがあると思いますが、平野さんの場合はこの三番目(物理学的観点からは正しいと言われているもの)を慰めとしている様に私は感じました。

    そう思ったのは、三好から借りて朔也が体験する『縁起engi』という宇宙時間を体験するアプリのシーンからです。

     

    他にも色々ある気がしますが、ここまでにしておきます。

     

    とにかく、この「本心」には、作者の平野さん本人が色濃く投影されていると思いました。

     

    <文責 ナンブ>

     
  • 第12回ヒカクテキ読書会「本心」報告前編

    526日(日曜日)午後7時半より

    『本心』平野啓一郎

     

     

    Hさん

    今日は、平野啓一郎さんの「本心」です。

    皆さんにまた長編をすすめてしまって、大変だったんじゃないかと思いますが、まずは感想を一通り聞かせていただければと思います。

     

    Saさん

    長編だったけれども、面白く読みました。私も段々と平野啓一郎さんファンになってきつつあります。

    それで、これ、近未来の2040年くらいの話ですよね、なんか段々日本が今よりももっと悲しいことになっていて、辛いなと思ったり、だけど、少し明るい未来もみえるところもあって、なんか面白かったです。

     

    Haさん

    3時間くらいでたぶん読めた気がします。率直に言うと、今まで重鎮の方々の文章が続いたじゃないですか。言葉のなんていうか・・・人生経験がめちゃ暗い方で豊かな。

    だから、若い竹のような、みずみずしいというか、粗削りというか、わか~い感じがとてもして、読みやすいというか先に進んでも「なんだっけそれ」って戻らなくて済んで、若いというのはこういうことだな~と。これからがある方なんだなと思いました。

     

    Kさん

    自分もかなり面白く読んだんですけど、自分の場合、主人公と年齢が近いんですよ。1歳差なもんで。

    で、読んでいると主人公の良い子さ、ピュアさ、みたいなのがいいなとは思ったんですけど、同時に「こんなにピュアなままんまで29歳になれるものかね」と思って。そういう意味では面白かったんですけど、ピュアやな~なんか。擦れてないんじゃないかなと。

    擦れてないからこの主人公は色々考えますよね。ていうところも面白かったし、ほんとに近未来のことが、色々とこうなるだろうなと、格差とかね、絶対になるでしょうという感じです。

     

    Nam(私です)

    Haさんじゃないけど、最近はずっと古めのもの読んでたじゃない?太宰とかね。

    そうなると、割と「最近のもの、最近のこと」を扱うと、どうしても複雑化してる。とっても。話の中とかテーマとかがね。だから、1人の男の転落とかではもう小説が成り立たなくて、とても中身が複雑化していて、色んな要素がどんなものでも入ってきてるなと。

    Hさんから「VFでお母さんを作る話」と聞いていたけれど、想像とは全然違っていた。VFの扱いについても、私の思うものとはちょっと違ってたなあと思いながら読みました。

    途中からお母さんのVFはどうでも良くなってるじゃん、と思いながら、ずっとその話かと思って読んでたら違うんだな~と。

     

    Hさん

    違うんだよね~。

     

    Nam

    良かったなというところをあげます。

     お母さんに看取ってもらう吉川先生が最後の最後に、お母さんのVFに向かって「恋をしてた」というところがあるでしょ?「やっとあの世で本当のあなたに会えますね」っていって亡くなるっていう。

    これ、すごく分かりやすくいい話、いい話だな~と。

     

    私は「そうだよそうだよ、これなんだよ、VFって」とすごく思った。この吉川先生が捉えているこのお母さん像、これこそがVFだよと、私は思った。こういう関係性でいいんだよ、と思った。もうストレートに、っていうか、単純にね。

    相手がなんであろうと、その間に会話が成り立って、なんらかのものを自分が与えられ、っていう関係性の中で、当然恋することもあるでしょう、いいじゃない?と思って読みました。

     

    あと、なんか、最後が『スズメ』っていうのが、ちょっといいなと思った。

    可愛いスズメで終わるじゃん?一羽のスズメが飛んでいって、同じスズメかどうかは分からないけど、二羽で戻ってきて。綿のように丸くなってさ、スズメが、ああいいなあ~と。

      

    あと、面白かったのは、朔也が「宇宙と一体化する」っていうアプリを体験する時に、色んな歴史がめまぐるしく動いて、「京都の鴨川で牛車が動いてて」とか、そういうピックアップの仕方が、ふんふんと思いながら読んだ。平野さんがピックアップしてる訳なんだけど、そういうのって、人それぞれだから。その人が思う「人間の歴史のトピックス」っていうものがあると思う。

     

    私はこれは途中まで「死」について書いているんだと思って、裏表紙見たら「命の意味」って書いてあったから、「生きる」って方なの?

    私は「死」の意味について書いてあるんだと思って読んでた。

    たぶん、平野さんの「死生観」みたいなものがコレなんだろうな~と思って。

     

    Hさん

    さっき  Namさんが言ってたVFとの関係について、この本の中にも書いてあるんだけど、平野さん自身もこうおっしゃっていました。

    「何か自分が持ってないものとか、自分に欠落しているものとかを、代わりのもので埋め合わせをするっていうことは、決して本当のものを持ってる人と比べて、劣るものではない。最初から本物を持っている人が優位で、代替品というか、埋め合わせのものが序列的に劣っているということはないんじゃないか。持っている人の方が優位だというのは、傲慢な考え方なんじゃないか」

     

    だから、私たちも何もかもを持ってる訳じゃないので、持ってない部分を何か他のものとか似てるものとかで埋め合わせて生きていく部分があると思うけど、それをすごく肯定的に捉えている平野さんの思想的な部分があるのかなと思いました。

    だから、さっきNamさんが言った吉川先生とお母さんのVFの関係は真実というか、平野さんの考えているところに近いのかなと思って聞いてました。

     

    確かにまずはひとつ、2040年という設定をいつも念頭に置いておかないと、色んなエピソードとか言葉に驚くことがあったかもしれないけど、いつも平野さんは自分の作品を出版してしばらくしてから、「自作解題」じゃないけど、その作品のテーマを一言でいったらということをされていて、この「本心」に関しては「愛する人の他者性」っていうのが、一言でいったらテーマだとおっしゃっていて、「なるほど」と私は思ったんですけど、朔也とお母さんは貧しい母子家庭なんで、本当に二人だけの、沢山の分人を持っていないんですよね。お母さんとの関係が濃密で。友人らしき人と言えば岸谷くらいで、その岸谷ともオンラインであったりとかで、すごく人間関係が少ないんですよね。

    だから29歳という年齢からしたら「え?」と思うかもしれないけど、母親との関係が濃密で、お互いに愛し合っていて、だけど、これだけ愛していてもどうして母が「自由死」を願ったかが、やはり答えは作品の終わりまで来てもでなかったというところで、「愛する人の他者性」かなあと、ひとつは思ったんですけど、三好さんの他者性とか色々あると思うですけど、イフィーの他者性か、まあ、同じように友人や好きな人として愛していたと思うのであると思うですけど、まあ、そういう風に(平野さんは)おっしゃっていました。

     

    で、Kさんが言った「29歳でこんなにピュアなのがあるのかな」ということですが、これは私なりの考えなんですが、すごく人間関係が少なくて、母親と二人だけでひっそりと社会の片隅で暮らしていたら、そうするとピュアというよりもこういう関係性からこういう人がこれから増えるかもしれないのかなと。

     

    Kさん

    いやあ、そうですねえ、親離れできてない子、多いですもんね。

     

    Hさん

    親離れもできていないし、親離れができない環境に置かれて、その環境から抜け出せないまま、それは自己責任では決してないと思うんですけど、社会だったり時代だったりの色んな影響を受けて、親離れができないまま29歳になってしまうという、そういう感じもあったのかなあと思ったりしました。

     

    じゃあ、次にですね、みなさんが「面白かった」のはどの辺が面白かったのかをちょっと聞いてみたいなと思います。

     

    私は、今回読んでみて、今までも3回くらい読んでいたんですけど、エピソードで、藤原さんという作家の書いた母が愛読していた小説の内容がずっとでてきましたよね。そのサプライズ番組みたいな話で、最後は男性の方が交通事故で番組の終了を迎えなくて死んでしまったという、これはなんの意味があって小説をこんな内容にされたのかなって。

    意味はないかも知れないけど、どういう意図だったのかなあって。そこに前半ではちょっとひっかかって、ようするにそういう今の時代をあらわしてるのかな?

    フェイクなのか違うのか、騙されているのかいないのか、ようするに真実が何か分からないという・・・そういうことが・・・言いたかったのか・・・。

     

    Saさん

    そのエピソードは、皆お笑い芸人を俯瞰して見て笑ってる訳だよね、騙されていることを。リアルアバターとして、朔也さんも、メロンを買いに走らされてるというエピソードがあって、結局、高みにいて見ている人と見られてる人、その格差みたいなものの象徴なのかなあって、ちょっと思ったりはしました。

     

    Hさん

    なるほどねえ・・・確かに。

    例えば、ドッキリとかサプライズとかで、結局、騙されている中にいる人と、騙されていることを仕掛けを知ってて高見の見物をして笑っている人っていう風だよね。

    なるほど、そこでも二分されているというか、分断されている訳だよね。

    何かでおっしゃっていたんですが、人に対して自分はサプライズするのが自分はあんまり好きじゃないということが書いてあったのを思い出したんですけど・・・。

     

    ここで、平野さんが体験したサプライズに関するエピソードが紹介されました。

    レストランで友人達と食事をしていると、隣の席でバースデーケーキが運ばれてくるサプライズが行われた。実はたまたま友人達の中にも当日が誕生日の人がいて、どう勘違いしたのかサプライズを期待している様子がありありと見てとられたが、そんな用意はしてなくて、当然いつまでたってもケーキは来ないので、場がすごく気まずい雰囲気になったというお話でした。

     

    もしかしたらそういう思い出から、平野さんのことだから、何か抽出して、サプライズに対してすごく考えられたことがあったの・・・かもしれない。サプライズとか驚かすとか・・・驚かすが過ぎると騙すということになるのかもしれないし。

      

    Nam

    これに「愛する人の他者性」ってことが最後の方に繰り返し出てくるじゃない?

    不思議なのは、高校の時に女の子を庇って座り込みのストライキをする英雄的な男の子がいたら、朔也は自分も座るじゃない?

    結局、その男の子はバックレて、ひとり残って座り込んでいたら、自分で退学することになっちゃって・・・。そして、後になって、その女の子に対して「愛していた」と考えるようになるんだよね。それが唐突で違和感があって、彼はその後も何度も思い返してはそう思うんだけど、それがちょっとわかんなくて、大して接点もない相手にそう思うって・・・。

    「愛する人の他者性」とか言ってるけど、そもそも彼にとって「愛」ってどういう位置づけなの?とか思っちゃうの。

     

    Hさん

    名付けようもない感情を愛と呼ぶのだろうか?というのが出てきてたと思うんだけど、それもまたこの青年の幼さを表しているのかと思ったけど、どうでしょう?

     

    Kさん

    結局、「何も意味なくやっても、何も意味ないとは思えない感じ」・・・ありますよね?

    そういうこと考え始めると、他に言いようが無かった・・・とは思いますが・・・。

    これからの人生の中で、「あれは愛ではなかった」と言い始めそうな気がする。この人は。

     

    Nam

    「あれはやっぱり勘違いだった」(笑)

    じゃあ、何のために俺高校やめちゃったんだ・・・って話にならない?(笑)

     

    ここで「愛」って言ったことを、彼は何度も問うんだよ、自分の中で。で、「彼女への愛」っていうものが、なんか変化してくる・・・違う「人への思い」とかに。

    だから、最初は接点もほとんどない彼女のことを「愛していた」とか言い出した時は、どうしちゃったのと思ったけれども、なんだろう、どうも彼の中ではそれが発酵してくる。

     

    Hさん

    平野さんの小説のひとつのテーマが、「アイデンティティー」とか「愛とはなにか」とかだとおしゃっているんだけど、「マチネの終わりに」でも、主人公の二人は二回しか会っていないから、私はそう唐突には感じなくて、どうして自分が座り込みをしたのかの理由がはっきりいえない・・・自分でも理由がはっきりしないとなると、「愛」って言葉にたどりついても私はそんなに不思議ではないんだけど、どうですか?

     

    Kさん

    最初の座り込みを始めたきっかけっていうのも、主人公発信じゃないじゃないですか。英雄的な・・・なんでしょうかね、英雄的って名付けていることから、なんなんでしょうかね、そういう人のようになりたかったのか・・・?

     

    Hさん

    英雄じゃなくて、「英雄的」っていってるから、皮肉っぽい意味合いで、英雄ではない・・・。

     

    Nam

    んー・・・私は別に皮肉と主人公がとっている感じはしない。

    ちょっとね・・・なかなかこれ、一回でやるのは難しいと思うんだよね。

    なんだろう・・・だから、女の子とほとんど接点がなくて、頼まれた訳でも望まれた訳でもないのに、英雄的な行動の男の子がでてきたら、なんだか自分も座り込んじゃう。

    「彼女に対する愛」とか言ってるけど、彼にとって「愛」っていうのは、私が思うには「自分の中」なんだよ。「自分の中になにか生まれているなにか」だから普通は愛と言えば「相手がいてこそ」だし、「その人がいて、自分がいて」の関係性の中で生まれるものっていう感じがするんだけど、彼の場合はなんか違う気がする。愛というものの捉え方が。

     

    Kさん

    あー、「自分から他人への矢印一本で愛」って感じですよね。

     

    Nam

    そうそう、自分の中になにかがあって、その何かが生まれた原因がある・・・「原因がいる」、くらいの感じ。彼女に対して愛を迸らせてる訳でもなんでもなくて。ただ自分の中にあるっていう。

     

    Kさん

    そうですねえ・・・。

     

    Nam

    で、これってさ。VFとの関係、それも、すごくこれに近い。

    「愛するお母さん」のVFを作るんだけど、でも、二人の関係性ってあくまで「自分」なんだよね。自分主体。で、相手から返ってくるものも、自分が学習させたものが返ってくるっていう関係。

    「愛する人の他者性」っていうのは、別の人、藤原さんが言うんだけど。

    彼にとっての「愛」っていうのは、相手を必要としない。だから、三好のことも好きなんだけど、彼女とどうにかなることは求めていない。でも、彼の三好に対する気持ちは、やっぱり「愛情」だろうと。

     

    Haさん

    そう、愛情なんだろうけど、こっちからは何もしないじゃないですか。向こうからもらうだけで、有難いって感じで。

     

    Nam

    だから、その関係性がね、人間とVF、もしくは、人間とAIの関係性にすごく似てるなあと。

     

    Hさん

    んー、そういう見方もある・・・確かに。

    と思うと同時に、例えば、高校時代の同級生の女の子は、二回ぐらい、教室の出入りをする時に道を譲ってくれたり、ノートを貸して欲しいと言われて、求められたから貸して、同級生の女の子は自分しかもう借りる相手がいないのかもしれないとか、自分も求められるとしたらこの女の子からしかないのかもしれないとかいう場面があったんだけど、ちょっと別の見方をすると、相手からの報酬とかお返しとか報いを求めていないという風にもとれるのかなと。

    特に三好さんは「指一本触れてほしくない」という強い願いがあった訳だから、それを護るというか、信頼をそこないたくないという意味でも、何も求めない愛・・・っていう見方もできるのかなっと。

     

    Nam

    私はね、ずーっと彼がとにかく一方通行、自分の中に生まれるものとの対話でやってきて、高校の時の女の子もそうだし、お母さん、作ったVFのお母さんともそうだし、三好ともそうだし、イフィーともそうなんだけど、最後の最後に、変わるんだよ、彼は。私的には。

    最後の最後に、日本語がちょっと不自由な女の子と、実際に待ち合わせをして、話をして、自分の方から「こういうものがあるからやったらどう?」と一歩踏み込んで、学校を紹介する。っていう風に、対人関係の作り方が、最後の最後に変わってくるんだよ。

     

    で、彼の中でもその時に、VFのお母さんはもう必要なくなっている。VFのお母さんが必要でなくなってきたのは、ひとつには三好とかイフィーがでてきたりして生身の人間との付き合いがでてきた時に、一回必要なくなってるんだけど、最後の最後に、お母さんと決別するじゃない?手を握ってくれたのは三好だけど。

    で、最後にティリって女の子と関係性を築こうとしている。「彼は変わった」っていう形で終わっているなあ・・・と思って。

     

    Hさん

    それはそうだと思う。

     

    Nam

    で、そこにスズメがでてきて、可愛くていいな~と思って。

    いいじゃん、ティリと仲良くしていけば!とか思って。

     

    Hさん

    この三好さんと、イフィーとの3人の関係がどうなるのかというハラハラ感が、私としてはすごく楽しめました。

     

    Kさん

    けっこうハラハラしましたよ、イフィーがいい子で良かったと思いました。

     

    Haさん

    ほんとう!?

    ちょっと「ノルウェーの森」を思い出しながら読んでたんですよね。

    他人な感じ。全然ピュア?それこそ、ピュアで、自分の感情の引き出しが少ない感じが私はしてて、ABCしかないみたいな。「好き」って言ったら、全部「愛情」!

    ・・・しかない!みたいな。

    カテゴライズが三つ四つしかなくて、みたいな感じがしたので、三好さんとの関係も兄弟を見ているみたいな。姉妹・・・みたいな。感じで見ていて、全然ドキドキしなくって(笑)

    で、最後にちょっと、明るくなったじゃないですか?

    それがちょっと「変身」の最後みたいな感じがしたんですよね。一番最後に「しゅっ」っと。

    (「変身」では)主人公が死んだ後に、お父さんとお母さんが「妹にも新しい彼氏を作らなくちゃね」みたいな、急に場面が最後で変わったのが、「変身」が変わったんですよね?あんな感じ?

    お母さんが・・・消えた?後で、皆さんがおっしゃったみたいに、実際の対面による人間関係が一からできている感じ?「幼稚園を始めました!」みたいな?

    三つしか無かったカテゴライズが、実は四つあったんだよ?・・・みたいな(笑)

    「未熟」っていうのが、さっきおっしゃって、そうだなあ~っと。

    全然、今までの読書会のどろどろした本たちと比べたら、みずみずしくて(笑)

     

    Nam

    でもさあ、これ、いうならさあ、ティリが言葉に不自由しててさ、自分の手助けを必要としている人間だったから・・・だよね?

    だから彼は踏み出せたんだよね?

     

    Haさん

    そうだと思います。手助けを必要としている相手なら、何か出来るじゃないですか、自分も自信ないし。

    座り込みもそうだし。自分よりも弱い立場の人には何か出来るけど、対等とか上の立場の人間には手出しできない。

    手出ししないというか、何をしていいんだか分からないんだと思うんですよね。

    ホントに、ピュアだな~っと(笑)

     

    Saさん

    あの、いいですか?

    Hさんに聞いて、平野さんがでている本の番組を見た時に、「親が亡くなった時に、子供、小さな子は割と世間からフォローされるんだけど、大人はそれをされない」と言われてて、それがけっこう心に残っているんだけど。

    朔也も親ひとり子ひとりで育ってきてて、すごい濃密な関係で、本当に、たぶんVFを作らないと生きていけないような関係だったんだろうなって思っていて、それが段々段々、なんか色んな人と、それこそイフィーのところで働くようになってからは、お母さんと話すことも忘れていた、みたいなところがあって、最後は特にティリのことを手助けするようになってきて、なんか・・・良かったなって思います。

     なんか段々、成長の物語でもあったのかなって。

     

    Nam

    金銭的なバックアップももうあるしね!

     

    Saさん

    そう、もうメロンのくだりが私は辛くて辛くて・・・。

     

    Hさん

    確かに、大人になったから悲しみに耐えられると決めつけることもなくて、大人でも、悲しいとは悲しい、それはあると。

     

    Nam

    大人の方が悲しいってこともあるかもだよね?むしろね?

    子供は案外回復も早くって、なんにも状況が分からなかったりするけど、案外大人の方が悲しいってことも・・・場合によってはあるよね?

     

    Hさん

    ほんとこの朔也が、こうやって人間関係を少しずつ増やして、お金もたまって、それを使ってまた勉強しようとしてて、ほんと、自分のことのように、良かったな~って(笑)

    良かった~って・・・思いましたよ。ほんとに。

     

    Nam

    だってさ、めちゃめちゃ不憫だもんね。

    お母さん亡くなっただけで、ショック受けてるのに、自分の父親が誰だって話になったら「精子提供者」の子供だったっていうんでしょ?

    で、自分のお母さんは女の人と二人で自分を育てるつもりだったのに、その女の人に逃げられて、いやおうなくひとりで子供を育てなきゃならなくなって、その子が自分だ!っていうんでしょ?

    もう分かれば分かるほど、気持ちの持っていき処がないようなことが最後にでてくるじゃん。で、結局、お母さん不思議な人過ぎて・・・。

     

    Hさん

    でも、2040年には、例えばそういう風にして子供を作ったりとか、同じひとつの家に男女で住んでても友情のような名付けようのない、ただルームシェアしてる、お互いに好意を持っているみたいな、こういう人が増えてるのかな~、増えるのかもしれないというのは、なんとなく思いました。

    ただ、Haさんがさっき言われた、「自分より弱い人には働きかけて、自分よりも優れていると思う人には働きかけることがない」っていうのが、なんかギクっとしました(笑)

    言われてみれば朔也くんって、そうなのかなあ・・・うん。

     

    Nam

    なんかさあ、リアルアバターとかすごい面白くなかった?

    面白いなあ、って思って読んだ。

     

    Kさん

    いやあ、そういう仕事、今後でてきそうですよね。

    もうなんかすでに「レンタルなんでも」、みたいなのあるじゃないですか?

    そういうので「自分を貸します」みたいなのやってる人はいますし。

    考えてみたら、Uberとかもそうですよね。あれがもっと拡大するのは、全然あり得ると思います。

     

    Nam

    でもさ、物だけじゃなくて、「その人に成り代わる」訳でしょ?リアルアバターって。

    だから、「感覚を共有する」ってことでしょ?

    そこはまだ今無いよね。

    だからさ、「感覚を他人と共有する」っていうのが、面白いと思う。発想として。

     

    ここからは、脱線して「人間とAIの違いとは」とか、または「AIの未来は」みたいなちょっと怖い話になってしまって、Kさんのなかなかの慧眼が発揮されて面白かったりしたんですけど、ちょっと長くなるので割愛します。

     

    Nam

    私はこの中のVFの母との関係とかさ、安心感をもって読めて(笑)

    この母のおとぼけ感、教えたことしか言わないしさ・・・なのに最後は「奇跡」が起こって、いなかったはずのお母さん、消えたはずのお母さんがなぜかまた傍に座って、自分の手を握ってくれるという・・・ものすごい美しい奇跡を体験して終わって良かったな・・・って。

     

    Hさん

    イフィーと朔也とどっちが好き?(笑)

     

    Kさん

    あー・・・イフィーです。

     

    Nam

    私は吉川先生が好き(笑)

     

    Hさん

    吉川先生もいたねえ・・・イフィーと吉川先生(笑)

     

    Haさん

    私はあの人が好きでした。病院から自分が昔いた場所に行ってもらう、最初のリアルアバターのお客さん。坂道大変でしょ?とか危ないですよ?とか、あの人いいひとじゃないですか。

    自分が死ぬ前に最後に見たい・・・とかいうの、分かるな、とか思って。

    普通の人?近い人?私たちの感覚と。

     

    Hさん

    私は、朔也!がいいです。

     

    Saさん

    私・・・あんまりいない。どっちもどっちかな、う~ん・・・作家の先生かな・・・。藤原さん。

     

    Hさん

    じゃあね、三好さんとティリだったら?ごめんね、愚問ばっかりで。

     

    Kさん

    えー!ティリほとんど出てきてないけど(笑)・・・でも、ティリ割と好きです。

     

    Haさん

    可愛い、安心するのはティリかな。

     

    Saさん

    でも、三好さんは良い人。

     

    Hさん

    良い人だよね?頑張ってるというか、生きてますよ。

     

    Haさん

    うん、生きてるって感じがする。

     

    Nam

    でもさ、三好さんもティリもメンドクサくない?相手にするにはめちゃメンドクサイ。

    三好さんはさ、地雷抱えてるし、ティリもなんだかさ、鬱屈があるよね?

     

    Kさん

    まだティリの方が楽かな、って感じします。

     

    Hさん

    そりゃあ三好さんの方が強いような感じはする。

     

    Nam

    わかんないよ?(笑)ティリも日本語ばんばんしゃべれるようになったらさ。

    私が一番好きなのは、スズメかな。スズメめっちゃ可愛い。

     

    Haさん

    お皿が最後逆だったでしょ?なんでこのシーンがいるんだろ?とか思って。

     

    Nam

    ちょっとしたアクシデントで、微笑ましいシーンなんじゃない?

    なんかさ、ちょっと親しくなるじゃん、そういうことがあると。

    「ほら、違ってるよ~?」とかいって交換してさ。ちょっと距離縮まるじゃん?

    「あ、それ私の」「あ、ごめんごめん」とか。

     

    Haさん

    お母さんのVFを連れてきた時に、あの女の人(野崎)が何か言いたそうな顔をするんですけど、言わないじゃないですか。あれってなんだったんだろうって、ずっとひっかかるんですよね。

    解決してないですよね?

     

    Hさん

    父親のことを・・・朔也の知らないようなことを、言っといた方がいいのかな・・・みたいなことなのかな。

     

    Kさん

    結局、母のことを知ってるんですよね。情報を得てるから。それで、主人公の知らないことを知っちゃったっていう、結果なんでしょうね。

     

    Haさん

    回収されるのかなって思ったら、回収されてないので。

     

    Kさん

    でも、もう、何がでてきてもびっくりしないですけどね、秘密が多すぎて(笑)

    野崎さんも割と好きでしたよ、私は。

     

    Hさん

    あー、ちょっとミステリアスな感じもあり・・・。

    最初は野崎さんが何か重要な役割をになっていくのかなあ・・・と思ったけど、そこまではなく。

    私はこの富田医院の富田先生、こういう人はあんまり好きじゃないなあ・・・という。

     

    後編に続く

  • 第13回(6月)ヒカクテキ読書会「肉弾」 のお誘い

    6月16日(日曜日)午後7時半より

    今回みなさんと読む本は、河崎秋子の『肉弾』です。

    直木賞作家もたまにはいいじゃないか、気楽に読みましょう!

    同行していた父親を熊に食い殺された大学生が、野犬の群れに紛れ込んで逃げおおせ、犬たちと熊に立ち向かっていく!
    血沸き肉おどるエンタメです!(たぶん)

    いつものように、「読んでも読まなくても大丈夫!お好きな飲み物片手にお気軽にいらしてくださいね?」

    「ミーティングはこちらから」

    https://us06web.zoom.us/j/84651238879?pwd=FPGmRsiiwOV7QQbkTlVvWDCMUVf51L.1

    ミーティング ID: 846 5123 8879
    パスコード: 634185

  • 第1回ヒカクテキ古典部「今昔物語」報告

    第1回ヒカクテキ古典部「今昔物語」報告

     

    519日(日曜日)午後7時半~9

    「今昔物語」

     

    私の選んだ「巻2741話 高陽川狐変女乗馬尻語」と、Nさんの選んだ「羅生門」の2つをやる予定でしたが、時間の関係で「羅生門」は次回(77日)になりました。

     

    まず最初に、簡単に「今昔物語」の説明をしました。

     

     

    平安後期に書かれた「今昔物語」は、『日本霊異記』『三宝絵』『本朝法華験記』などをもとにして、日本、インド、中国の説話が全31巻にまとめられた説話集
    8巻、18巻、21巻は欠落。

     

    正確な執筆年代や、作者、題名もは不明。

    説話の全てが「今は昔」と書き出されているため、「今昔物語」と呼ばれている。

    鎌倉時代の説話集「宇治拾遺物語」など、後の説話集に大きな影響を与えた。

     

    明治以降、武者小路実篤や菊池寛、新田次郎など、多くの小説家にも影響を与えたが、特に芥川龍之介「今昔物語」を題材に、多くの作品を残している

    特に有名なのは、「鼻」「羅生門」などである。

     

     

    ここからは、原文と訳文を対比させながら、具体的なイメージをもって理解してもらえるように写真や地図、画像などを見ながら皆で読みました。

     

    私にとって「高陽川狐変女乗馬尻語」は、子供の頃読んで印象に残ったお話です。

    狐が人をだますという不思議と、最後には人間に酷い目にあわされる狐が、なぜ何度も少女に化けてでてくるのかといえば、ただただ「人間のように馬に乗ってみたい」という好奇心と願望からきているということに、子供心に深く共感したのを覚えています。

     

    そりゃあ乗ってみたいだろうなあ、自分で走るのと走る馬に乗るのはドキドキ感が違うし、目線が高くなって晴れ晴れと気持ちがいいし。

    自分が動物園のポニーに乗った時のことを思い出して、頷いたのでした。

     

    少女に化けた狐は、高陽川のほとりで京に向かう人を待って、馬の後ろに乗せてもらってはしばらくたつと飛び降りて狐に戻って逃げる、という悪戯を繰り返していました。

    それが噂になって、滝口の武士の中の一人の若侍が、捕まえにいきます。

     

    少女を馬の後ろに乗せて、縄で鞍にしばりつけ、驚いた少女が訳を問うと「お前を今夜抱いて寝ようと思うから逃げられないようにした」と今なら警察案件のとんでもないことを答えます。

    いつものように、飛び降りて逃げられない狐は、行く手に牛車の行列を出現させて若侍をぐるっと遠回りさせ、まやかしの土御門で馬を降りさせ、まやかしの従者や同僚たちを出現させて、まんまと縄を解かせて逃げおおせます。

    若侍は、一瞬で全てがかき消え、気が付くと真っ暗な闇の中にひとりポツンと立っていました。

    そして、実はその場所は、帰って来たと思っていた内裏からは遥かに遠くの鳥部野(墓場)だったのです。

     

    まんまと騙された若侍は、しばらくは体調を崩して寝込みますが、同僚にばかにされて再度リベンジすることにします。

     

    今度は、用意万端。屈強な従者を沢山つれて、馬ででかけます。

    今度であった少女は、前の少女とは違う顔をしていました。

    同じように馬の後ろに乗せ、また縄で鞍に縛り付け、従者に松明を持たせて、あたりに気を張って歩いていくと、今度は本当の内裏に到着しました。

    でてきた同僚たちに、誇らしげに「捕まえたぞ」と言います。

    手ひどく扱われて人間の姿を保てなくなった狐にさんざん皆で矢を射かけ、松明で毛がなくなるまで体を焼き、「もうこんなことはするな」と言って、命までは取らずに逃がします。

    狐は息も絶え絶えの様子で、なんとか逃げていきます。

     

    ちょっと、やりすぎな感じです。

    でも、平安の昔は、怪異と隣り合わせに人々が存在した世界です。

    それは、帝のおわす内裏の中でさえ例外でなく、様々な怪異が起こったという話があります。

    ましてや、高陽川のある平安京の西側は、都でありながら邸宅を構えていた貴族が次々と東へ逃げ出し、水害も起こり、すっかり荒れ果てた土地になっていました。

    そこに出る狐、少女に化ける狐は、恐ろしく、また懲らしめるべき腹立たしいものに思えたのでしょう。

     

    それから10日程して、若侍は更にもう一度狐に会いにいきます。

    最初に騙された時は、意気消沈して、
    「リベンジがならなかったら同僚に合わせる顔がないから、職場にはもういかずにずっと家に引きこもって居よう」
    とか言っていたくせに、今はすっかり調子に乗っています。

     

    高陽川で、あの少女に会いますが、すっかり様子が変わって痛々しい姿で立っています。

    調子に乗っている若侍は、「おい、馬の後ろに乗れよ!お嬢ちゃん」なんて、いい気になってからかいます。

    少女は「乗りたいけれど、松明で焼かれたのが耐えられないほど辛かったから・・・」としょんぼりと消えます。

     

    可哀そうとしかいえないです。

    でも、まだ本当は馬には乗りたいと口にするところが、せつないです。

     

    説話の最後はこんな風に終わります。

    昔から、狐が人に化けるのはよくあることだが、この狐は本当に上手く人を騙して、鳥部野まで連れて行った。

    それなのに、なぜ二回目の時には、だますことをしなかったのか。

    人の気構えがちゃんとしていたので、狐も騙すことができなかったのだろう。

     

    本当にそうだろうか?

    と私は思います。

     

    一回目と二回目の少女は顔が違います。

    一回目に鞍に縛り付けられたのに、二回目も警戒心無く、やすやすとまた縛り付けられています。

    そして、今度は牛車をだしたり、道を間違えさせたりしないで、滝口の詰め所まで連れていかれてしまいます。

    一回目の狐のまやかしで、武士の同僚たちが狐に矢を射かけようと構えたところからも、もし本当に連れていかれたら自分がどんな目に合うのか、狐には分かっていたはずです。

     

    これらのことから、私は一回目と二回目の狐は違う狐なのではないかと思います。

     

    最初の狐はお姉さん、美人で頭の良いお姉さん狐は、人を騙すのも上手にできます。

    お姉さん狐は、家に帰って妹にこう話をします。

    「今日は本当に面白かったわ。いつもより、ずっとながいこと馬にも乗ったし、人間を騙して墓場に置き去りにしてやった。あの人間の驚いた顔ったら(笑)」

    いつもお姉さんが馬に乗った話を聞いて、羨ましく思っていた妹狐は、とうとう我慢できなくなって、自分も高陽川にでかけていきます。

    でも、なんとか少女に化けることはできても、人間のことを良く知らず、騙す方法も持たない妹狐は、姉の分までやったことにされて、酷い目に合う羽目になってしまったのでした。

     

    あれだけ酷い目にあった妹狐は、それでもまだ馬に乗りたいという未練がありました。

    だからまた高陽川に行ってみました。

    でも、またあの若侍に会って、今度はさすがに「怖い目に合うから、もう乗れないな」と諦めるのでした。

     

    ああ、可哀そう。

     

    と言ったところで、Nさん「僕は違う解釈」と。

    狐は、若侍のことが好きになっちゃった。だから、2回も会いにいって、今度は騙せなかった」

     

    あ~!

    それは思いつかなかった!

    そんな解釈もありかもね。

    「今夜はお前を抱いて寝るぞ」とか言われちゃってたしねえ。

     

    Nさん
    「僕はすぐにそんなこと考えちゃう。でも、きっとKくんも同じこと考えたと思う」
    と言いましたが、Kさんはまた違うみたいでした。

     

    Kさん
    「僕だったら、女に化けてこられるより、狐のままで来てくれた方がいい。可愛いから。そのままだったら、抱いて連れて行く」

    (当日見ていただいた数枚の子供の狐の写真が、とんでもなく可愛いものだったのです。ここには使えませんが)

     

    綺麗な少女より、可愛い動物が勝ち!

    さすがです。

     

    最後に、皆さんに短いマンガを読んでいただきました。

    狐が一緒に走りたくて自転車に化けるお話。

    現代の説話集と言ってもいいようなコミックスからの抜粋です。

    「いつもきみのそばに」(みつつぐ作)の中の「狐と自転車」

    動物の不思議な可愛い怪異談を25話描いたもので、とっても面白いので、良かったら読んでみてください。

     

    まあ、そんなこんなで、なんとなく、終了です。

    私が震え上がったのは、初めていらしてくださったIさんが、ちょうど授業で「今昔物語」を教えていらっしゃるとのこと。

    こんな適当な内容薄いことで申し訳なかったです。

    今度、機会があったら、お話し聞かせていただけたら嬉しいです。

     

    次は、ちょっと時間をおいて、77日七夕様にやります。

    Nさんが、「今昔物語の羅生門」と「芥川龍之介の羅生門」を比較しながら、お話しくださることになっています。

    楽しみ。

     

    皆で、次までに芥川の「羅生門」を、読んでいくことになりました。

     

    ではでは、こんなゆるゆるな感じで始まりました「ヒカクテキ古典」に、どうぞよろしかったらご参加ください。

    最初から、4名も参加があって、とってもとっても嬉しく存じます。

    当日のとは違いますが、おまけの子供の狐の写真です。
    こんな可愛いの、馬に乗せてやればいいじゃんね?

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    <文責 ナンブ>

  • 第11回ヒカクテキ読書会「人間失格」報告(長すぎ)

    ■第11回ヒカクテキ読書会「人間失格」(太宰治)

    4月14日・日曜日 19時半~21時半

     

    いつになく、「さあ~! やりますか!」と声を合わせて開始。

    今夜は、一体どうなりますことやら。

     

    Haさん

    読みましたぁ~!二巡?いや、一巡半した。

    思ったのは、時系列……?年譜と合わせて読みました。

    死んじゃった後に発表されている。そうなると、死んだことはきっとニュースになったはずだから、出版されたらみんな読みたがって、これは売れたと思う。

    思い出したのは、漱石の「こころ」の先生の文を思い出したかな。あれは『遺書』として書かれていたけど、これはその「実写版」。

    この人ヤバくない?と思って読んでたら、案の定死んだ。命をはって書いたというか、止めなきゃとみんな思ったけど、結局死んでしまって、リアルすぎて怖かった。

    太宰も東大で、東大出身者はみんな病む。N先生ごめんなさい(笑)。

     

    Kさん

    何で東大でると……?頭が良いと病むのかな?

     

    Na(私です)

    本に付箋がいっぱいついてるけど、とにかく、どこをとっても面白い!

    詳しいことは後にして、ひとつだけ。

    女が「何か面白い本を貸して」と言った時、主人公は「吾輩は猫である」を貸す。

    前に同じ太宰の「畜犬談」をやった時に、滑稽な文体がどこか漱石に似ているんじゃないかと、漱石の「カーライル博物館」を比較に持って行ったけど、今回、この話の中で「面白い本」=「吾猫」って来たとこで、「いえ~い!やっぱり太宰は漱石好きなんじゃん!」って思った。

     

    Njさん

    僕も、どこをとっても面白いと思った。

    思ったことが2つくらいあって……。

    一つめは、「人間失格」というタイトルに惹かれる。

    自分も高校の時に、タイトルを見て、「これは大変な書物なんだろう。きっと自分が裁かれる」と思って読んだけど、記憶が無いんだけど、たぶん違ったんだろう。

    2つめは、薬物中毒の手記としての興味。

    アルコール依存。女性依存。モルヒネが、薬局で売っていて、それが買えることに驚き。

    (今は)病院ではモルヒネの管理は厳しくて、安易に持ち出せないようになっている。

    「モルヒネがあるから仕事がうまくいく」とか言っちゃって、完全に中毒。

    病院に入って、回復はしていくんだけど…。

    太宰も依存症で、鬱的傾向があったのか。そういう意味でも興味深かった。

    モルヒネの話なんだけど、今は癌患者の痛み止めに使ったりするんだけど、その時は量の制限がないらしいんだよね。

     

    Kさん

    お酒よりも体の害にならないのかな?

     

    Njさん

    ヒロポンとか、覚醒剤みたいなものなんだけど、戦後に戦場から帰ってきた人が使ってたとかいうことがあったんだよね。

     

    Na

    ヒロポンは、特攻隊に使ってたんだよね。

    使って、怖がらなくさせて特攻させてた。

     

    Hさん

    私は、そんなに長くないし、スイスイ読んで、最初の3枚の写真のところで(こんな話だったなと)思い出した。

    この人、最後はどうなるのかな?と興味深く読んだ。

    でも、とにかく、「もてるなぁ~!」

    当時はこういう人がもてたのか?

    相当見目麗しいらしいけど、お金も無く、ヒモ同然で、飛び出したらすぐに次の女ができる。

    最後のあとがきでは、バーのマダムが「葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」と言う。

    なぜに、こんなに……?もてるなぁ~。

     

    Kさん

    そうなんですよねぇ~。

    全然詳しくないんですけど、文豪はもてたのか?

     

    Haさん

    鴎外はもてた!「舞姫」でもドイツで女の人ができて、日本まで追いかけてきた。

     

    Saさん

    私は、嵌まったら怖いなと10代の頃思った。心酔してしまったらどうしようって。だから避けてた。

    今回は、冷静に面白く読めました。

    葉ちゃんは、バーのマダムが言ったことが全てという気がする。

    心中も、自らすすんでしたわけじゃない。

    きっと太宰もそうなのでは?何度も心中して、最後は本当に死んでしまった。

    道化を演じていると書いてあるけど、子供は無邪気じゃないと思う。無邪気でいられた子供は幸せ。

     

    Kさん

    大人はそう思いたいけれども、自分が子供の頃にどうだったかと考えると……。

     

    僕の感想ですけど、初めて読んだんですけど、このタイミングで読めて良かった。

    最後のところで「27歳になります。40以上に見られます」ってところで、僕よりも年下だって分かって、そんなに若かったのかとインパクトがあった。

    もしも中学で読んでいたら、歪みそう!変なことを覚えそう!

    結局、「人間失格」というタイトルが、失格した方が幸せ?なのかな~と。人間の中では生きるのが大変。

    人間失格でも、本人が幸せならいいかっ!

     

    Haさん

    「あとがき」を読んで、終わりかと思ったらまだ「あとがき」があって、「あとがき」だから「解説」みたいなものかと思ったら、まだ話の続きでびっくりしたんですけど?

     

    Na

    この話は、「はしがき」「第一の手記」「第二の手記」「第三の手記」「あとがき」ってなってて……。

    バーのマダムから3枚のしゃしんと手記を手渡された作家が、写真に対する印象を書いたのが「はしがき」、「これは手を入れずにそのままの方がいいだろう」と手記をそのまま載せたのが手記3つ、その経緯を明らかにしたのが「あとがき」。

    だから、作者が2人いるという「体裁」になっているんじゃないかな。

     

    Njさん

    「入子(いれこ)」になってるっていうかね。
    本のページの端に題名が書いてあるけど、「あとがき」のところにも「人間失格」って書いてるよね。

     

    Haさん

    そういう構成か。

     

    Kさん

    「世間というのは君」って、言葉がありますよね?

     

    Na

    「世間は個人」ってね。今まで正体が掴めなくて漠然と恐れていた世間が、実は個人じゃないかと気が付いて、ちょっと楽になるんだよね。

     

    Kさん

    あれで楽になって、その分、押さえつけられていたタガが外れたんじゃないかと。(加速度的に酒に溺れていく)

    非合法はいごこちがいい、合法は恐ろしい。

     

    Na

    「人間失格」っていう題名なんだけど、これどういう意味だと思う?

     

    Kさん

    自分でも薄々そうだと分かっている。人からはそう見られないように頑張っていたけれども。

     

    Njさん

    僕は別の解釈。彼は自分のことを「人間失格」とは思ってなかったんじゃないかな。

     

    Na

    普通だったらさあ……この男の話をずっと読んで来て、男が堕ちていく様を「人間失格」って言ってるのかと思うんだろうけど。
    実は、「人間失格」って言葉は、最後の方で「脳病院」に入れられた時に初めてでてくるんだよね。

    自分は狂人ではない、ないけれども、脳病院に入れられたことで、「狂人、廃人という刻印を額に打たれることだろう」「人間、失格。もはや自分は、完全に、人間でなくなりました」って。

    「人間失格」っていう言葉は……なんだろうな……皮肉?

     

    Hさん

    私は、タイトルが違うものだったら、この男の事を「人間失格」とまでは思わない。

     

    Kさん

    人間失格なのかな?

    人間の俺、世間から外れた……。

     

    Haさん

    潔癖で、中学生の子供みたいで、扱い難くて……。

     

    Hさん

    たまたまなんだけど、ドフトフスキーの『白痴』を読んでいて、似てなくもないなあ……太宰が読んでいたんじゃないかなと思いました。内面を掘り下げて書いている。「人間失格」で「神様みたいないい子でした」とあるけど、『白痴』の主人公も、これは翻訳者の人が言っていることなんだけど、ドフトエフスキーは、「とても美しい人間を書こうとしていた」と。

    ムイシュキン公爵は、誰に対しても天使のような対応をする。傍から見ていたら歯がゆいくらいに、良い態度。

    葉ちゃんは、女性に対しても本音を言わずに、おどけている。誰に対してもおどけてしまう、本音を言わない。受動的で流されるままに、そういうところがムイシュキン公爵と似ている。

     

    Haさん

    奥さんがレイプされるところ。

    純真に対して、それが犯されることが、彼には堪えられなかったんじゃないかな。

     

    Kさん

    彼がどうして女にもてたのか……それやります?

     

    Hさん

    どう?なんであんなに彼はもてたのか……。

     

    Na

    だって、あれはもてるでしょ!

     

    Hさん

    じゃあ、どう?もしも自分だったら、好きになる?

     

    Na

    ※ここから彼のどこがどうなのか、詳しく話しましたが、それは最後にまとめます。

     

    Saさん

    「人間失格」は映画になってるよね。生田斗真主演。

     

    Na

    小栗旬のは?

     

    Saさん

    あっちは、どちらかというと太宰のことを描いた映画。

     

    みんな

    生田斗真かあ……。

     

    ※ここから、もしも他に選ぶなら、主役は誰がいいかの話に。

     綾野剛、長谷川博己の名前があがる。なるほど演技うまい!

     私は、松下洸平を推しておきます。

    でも、彼だと地味過ぎて客は呼べなそう(笑)。

     

    Haさん

    主人公が友人と言葉遊びをするところ、あれ、絶対に自分も友だちと絶対やろうと思った。

    黒のアント、白のアントって、フランス語っぽいと思ったら、太宰は仏文出身!

    あれって、仲間内で同じ感性をもってるかどうかを調べて、もって無い人をばかにするというやつ。

     

    Ha

    罪の対義語は、法律って言ったら。

     

    Na

    それは違うだろう!って。

     

    Ha

    罪の対義語は……罰。

    罪と罰……ドフトエフスキー!ってでてくる。

     

    Hさん

    ああ!ドフトエフスキー!

     

    みんな

    これは、読んでるね!太宰!(笑)

     

    Na
    ごめん、話もどしていい?

    「人間失格」って言葉が「皮肉」なんじゃないか、っていう話なんだけど……。

     

    脳病院に連れていかれて、ヨシ子が差し出したモルヒネを「いらない」って拒むでしょ?

    「すすめられて、それを拒否したのは、自分のそれまでの生涯において、その時ただ一度」って書いてあるんだよね。

    「自分の不幸は、拒否の能力のない者の不幸」だって。

    でも、あの時、あんなに中毒だったモルヒネを「自然に拒否」して、「すでに中毒ではなくなっていたのではないでしょうか」と彼は思うんだけど、そこで脳病院に入れられて鍵をかけて閉じ込められてしまう。

     

    狂人だから入れられるんじゃなくて、入れられたから狂人となった。

    「狂人、いや、廃人という刻印を額に打たれる」

    「人間、失格。もはや、自分は完全に、人間ではなくなりました。」

     

    「神に問う、無抵抗は罪なりや?」って彼は思う。

    彼にとって、そうなったのは皮肉ななりゆき。

    「人間失格」には皮肉な意味合いがあるんじゃないのかなあ。

     

    Hさん

    彼は、どうすれば幸せになったのかな?

     

    Kさん

    嫌われる勇気があれば良かったのかな。彼は、自己評価が低いですよね。

     

    Na

    幸せって、どういうものを言ってるの?別に、彼は不幸じゃないんじゃない?

     

    最後の最後、廃屋みたいな家に一人で隔離されて、60歳くらいの醜い老婆の女中をつけられて、しかも、その女中に変な犯され方をして。

    なのに、この男ときたら、その女中と夫婦喧嘩みたいなことをして、暮らしている。
    睡眠薬を買いに行かせたら、違う薬を買ってきて、知らずに飲んだら酷い下痢をしちゃう(笑)。

    「これは、お前、カルモチンじゃない。ヘノモチン、という」

    と言って、あんまり喜劇みたいだからうっかり笑い出してしまう。

     
    「いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、いっさいは過ぎてゆきます」

     ここまできて、彼は世間と向き合う恐怖から楽になったんだよね。

     

    人の人生にはさ?幸福も不幸もないんじゃないの?
    誰にも、そんなことは分からないし、決められないんじゃない?

     

    Hさん

    じゃあ、なぜ彼はこんな風になってしまったのかな?

     

    Na

    ひとつには、バーのマダムが言ったように「父親が悪かった」んだろうね。

    それと、もうひとつは、彼は幼少期に「性的暴行」を受けてるんだよね。

     

    Njさん

    確かに、はっきりとは書かれていないけど、このお父さんはかなり厳しいかんじがする。

    Na

    結局、父親は彼を切り捨てるよね。長男も父親のひな型だし。

     

    Nj

    お兄さんも、怖いよね。

     

    Na

    子供はさ、愛されたいんだよ。どんな親でも、虐待されても、親は親なんだよ。優しい笑顔を向けて欲しいし、そうしてもらって甘えて抱き着きたいんだよ。

    でも、彼はそうじゃなかった。最初に親とまともな人間関係を結べなかったし、付き合い方を教えてもらえなかったんだから、人間とうまく付き合えるようになる訳がないんだよ。

     

    Hさん

    義理の娘に「本当のお父ちゃんが欲しいの」って言われるよね?

     

    みんな

    あ~……(涙)あれ、つらい。

     

    Na

    これ、いい話なところもあるんだよ。

     シズ子と子供がさ、部屋の中でウサギを放してきゃっきゃしてるとこ。

    主人公の帰りを待って楽しそうにしている。

    「お父ちゃんはびっくりするわね」

    とか言いながら。

     

    主人公は、その光景を覗き見て、「自分はその幸福を滅茶苦茶にしてしまう」といって、居なくなるんだよね。

    そこには、幸福があったし、主人公は二人を愛していたんだよね。

     

    Saさん

    幸福から、自分で逃げちゃうんだよね。

     

    Na

    もうね、不憫。彼は本当に不憫。

     

    Hさん

    不憫だよねえ。

     

    Na

    年齢もあるのかもしれない。27歳。

    もっと歳を取ったら、そして、例えば誰かと結婚して、子供が生まれたりしたら、変われたのかもしれないけど。

     

    Saさん

    でも、でてくる女の人たちは、みんな彼のことが好きだし。悪い人はでてこないよね?

     

    みんな

    堀木は悪い奴!(笑)

     

    Saさん

    太宰もね、何度も女の人と心中しちゃうけど、女たらしというか、そんなに悪いひとじゃない気がする。

     

    Na

    私も、なんかさ……「女がそんなに言うなら、一緒に死んでやろうかな」みたいになっちゃう人なんじゃないかと思う。

     

    葉ちゃん(主人公)のことをさ、マダムが言うじゃない?

    「神様みたいないい子でした」って。

    これって、結局太宰が書いてるんだけどさ。

     

    ……これを言うと、またHさんに「分人主義」って言われちゃうかもしれないけど、私は、葉ちゃんが、色々あったダメな自分だけど、本質というか、根っこのところには、そういう自分もいるんだよ……って思っているし、「いい子」って言われたかったんじゃないかと思う。

    ほんと、不憫としかいいようがない。父親が悪かったんだよ。

     

    Hさん

    そこにもどってきちゃうんだね。

     

    Na

    ところで、言葉の話なんだけど、可愛いところいっぱいあるよね?

     

    Hさん

    ノンキなトウさん、セッカチピンチャン、キンタさんとオタさん。

     

    Na

    お変人、お茶目さん、ポンポン蒸気。

    五つの女児と二人、おとなしくお留守番!可愛い。

     

    ユーモラスなところも、いっぱいあるんだよね。
    自殺幇助で警察に捕まってる時、咳がでてハンカチで口を押えて、そのハンカチに血がついているのを見た署長に「からだを丈夫にしなけりゃいかん」とか親身になって言われて、伏目になって殊勝に

    「はい」とか言ってるんだけど、その血は『耳の下のおできをいじってて出た血だった』!(笑)

     

    しかも、懲りずにまたその手を使おうとおおげさに咳をしてみせたら、美貌の検事に見抜かれて、恥ずかしさに「冷汗三斗」!きりきり舞いをしたくなる。

    三斗って(笑)

     

    Njくん

    30リットルだっけ?

     

    Na

    この本って、人それぞれの読み方があるとは思うんだけど、世間と相いれない辛さとか、落ちていく男の悲劇とか、そういう風に読まれることも多いんだろうけど。

     これって、「壮大なモテ自慢」って読めなくもないよね?(笑)

    ユーモラスだし。結構笑った。

     

    Hさん

    確かに、結構笑ったかも。

     

    Na

    ま、とにかく面白いよね?

     

    Kさん

    面白かったです。メンヘラの話、メンヘラな太宰が書いた。

     

    みんな

    面白かった。

     

    ※「人間失格」、面白いで終わって良かったです。

     ******************************************

     ここから私の感想、というか、前出の「なぜ葉ちゃんはもてるのか」についてです。

     「彼は女を下に見ている」という意見もいただいて、それもそうなのですが、それは時代的なことも大きくて。

     ジェンダーの問題に日本で世間が敏感になったのは、実は、たったここ数年で、しかもまだ古い価値観は色濃く残っている。いや、まだそちらの方が多数かもしれない。

     

    私の中では、「男女の関係性について」の古い価値観への強い嫌悪と、「日常や、映画や歌詞や小説やマンガなどで」長い時間触れてきたそれを無意識に受け入れてしまう気持ちがないまぜに存在している。

     だから、私が「葉ちゃんがもてるのは当然」と思う部分は、世代が下向きに離れている人にとっては、反発を感じさせるものも多いかもしれないです。

     

    でもね?

    実のところ、今でもかなり通用しちゃうと思う。ある種の女性たちには。

     

    葉ちゃんは、まず幼少期から並々ならぬ「女の観察者」です。

    そして、手痛い失敗を繰り返しながら、難解な女との付き合いを多数の女を相手に体得していきます。

    そして、もともとの「道化」の技を磨いて、女を自由自在に大笑いさせることが出来るようになります。

     

    観察の眼の確かさは、ひやりとする程です。

     

    「妹娘のセッちゃんは、その友だちまで自分の部屋に連れてきて、自分がれいによって公平に皆を笑わせ、友だちが帰ると、セッちゃんは、必ずその友だちの悪口を言うのでした。あのひとは不良少女だから、気をつけるように、ときまって言うのでした。」

     

    なんでこんなこと知ってるの~!?

    やるやる、こういうことやる女いるいる!!!(笑)

     

    それから、ある夜、布団に入って本を読んでいると、下宿の姐娘が部屋に入ってくる。

    そして、激しく泣きながらこうかき口説く。

     

    「あたしを助けてくれるのだわね。そうだわね。こんな家、一緒に出てしまったほうがいいのだわ。助けてね。助けて」

     

    ここで彼がすごいのは、彼女を言葉でなだめようと一切しないこと。

    布団から起きだして、机の上の柿をむいて、一切れ手渡す。

     

    彼女も泣きながら柿を食べ(食べるんだ?)「何か面白い本はない?」と聞く。

    そこで、彼が選ぶのが「吾輩は猫である」だというところ、絶妙なセレクト。

     

    『女は、どんな気持ちで生きているのかを考える事は、自分にとって、蚯蚓の思いをさぐるよりも、ややこしく、わずらわしく、薄気味の悪いものに感じられていました。』

     

    蚯蚓よりも!?(笑)

     

    そして、彼は幼少期よりこんな極意を体得していた。

     

    『女があんな急に泣き出したりした場合は、何か甘いものを手渡してやると、それを食べて機嫌を直す。』

     

    女には、甘いものでも食わせとけ!(笑)

     

    そんな彼が、堀木と知り合って、悪い遊びを覚える。

    淫売婦によって女の修業をして、めっきりと腕をあげ、とうとう「女達者」の匂いをつきまとわせるようになってしまう。

     

    そうなると、沢山の女達が寄ってくるようになった。

     隣の将軍の娘が、牛肉を買いにいくと女中が、煙草を買えば煙草屋の娘が、歌舞伎を見れば隣の席の女が、電車の中で……。いや、もううじゃうじゃとすごい。

     

    もうね、歩く誘蛾灯(笑)

     

    でも、そんな彼はこう。

     『世間から、あれは日陰者だと指差されているほどのひとと逢うと、自分は必ず、優しい心になるのです。そうして、その自分の「優しい心」は、自身でうっとりするくらいに優しい心でした。』

     

    そして、堀木に貧乏くさいとけなされる女給ツネ子を愛しく思って、初めて微弱な恋心を感じ、女の言うままに心中して、生き残る。

    めそめそと、貧乏くさいツネ子を思って泣きじゃくる。

    哀れ。

     

    それからも色々とあって、ずいぶんと年下の純真なヨシちゃんと知り合った場面。

     

    酒に溺れている葉ちゃんを、注意するヨシちゃん。

    「明日から一滴も飲まない」と宣言する葉ちゃん。

    「きっと、やめる。やめたら、ヨシちゃん、僕のお嫁になってくれるかい?」

     馬鹿みたいな冗談だが、純真なヨシちゃんはこう答える。

     「モチよ」

     

    しかし、案の定、次の日は昼間から酔っぱらって、ヨシちゃんの店の前にふらふら行く。

     「ヨシちゃん、ごめんね。飲んじゃった

     

    「飲んじゃった(ハート)」じゃないだろう!(笑)

    年下の女の子に、臆面もなく甘える葉ちゃん。

     「馬鹿野郎。キスしてやるぞ」

     

    ……もうね、どうしたらいいんだか、この男は(笑)

     

    残念ながら、ヨシちゃんとの結婚は、ある事件で悲劇へと変わってしまうけど、それは置いておいて。

     美貌で、影があって、人を笑わせるのがうまくて、甘えん坊、お坊ちゃん育ちで、どうしようもないダメな人だけど、誰にでもいい人だと感じさせるものがある。

    これはもてますよ!

    と思います。

     

    もてた方がいいのかどうかは知らんけど。

     

    <以上 文責 ナンブ> 

    ※追記、関連して、勝手なセレクトでマンガを紹介します。

     

    ●「愛されたかった男の子と父親」に関して

     「訪問者」(萩尾望都)

     「メッシュ」(同じく)

     太宰大好きなFさんが大好きな萩尾望都。その作品。

     萩尾さんの多くの作品のテーマは、親子。

     「訪問者」は、「トーマの心臓」のわき役オスカーの話。ものすごい名作。こんなもの描いちゃうのか、恐ろしい。

     

     男の子と父親のテーマは、ずっと後に形を変えて「残酷な神が支配する」につながっていく。

    あんまり恐ろしくて、当時一回読んで封印。